リックとマモノのエサのノラ
十四 けんかぼろぼろになったとはいっても、まったく読めなくなったわけじゃあない。ノラはおじいさんから新しいノートをもらい、書き直しながら一語一語、リックに説明した。もちろん、ノラだってカウミル語はまだまだわからない。二人はゆっくりゆっくり作業を進めた。
二人の生活はこうだ。ノラは朝になるとリックの家へやって来る。おじいさんの畑の世話を手伝ってから、リックと二人でお母さんの部屋にこもる。お昼になったらおじいさんが作ってくれたごはんを食べ、そのあとはまた作業に戻る。このくらいの時間になるとオリーブたちがやってきて、二人が作業するそばで本を読む。空が橙色になるころ、ノラはオリーブといっしょに帰っていく。
暖かい日がしばらく続いた。窓際の日だまりのなか、いすを二つ並べ、机に向かう。目と手は本とノートと辞書を行ったり来たり、そのささいな動きだけで、相手がなにをしようとしているかがわかる。まるで昔からの友だちみたいに、リックには思えた。
ノラが帰りたくないと言ったのは四日目の朝だった。
その日、ノラはいつもより早くやって来た。あんまり早いものだから、リックは朝食を食べる前だった。ノラもまだ食べていないという。おじいさんは急遽、パンとソーセージを余分に焼いた。
しばらくするとオリーブのお母さんがやって来た。ノラがいるのを確認して、おじいさんと少し話をしてから帰っていった。
リックは終始おろおろしてした。なぜなら、ノラのまぶたは腫れ上がり、ほおには涙のあとが残っていたからだ。
ノラは言う。
「オリーブとけんかをしたの」
「えっ、どうして?」
「わからない」
ぶんぶんと首を振り、それきり口をつぐむ。目も合わせようとしない。いろいろ訊きたいけれど、どう切り出せばいいだろう。リックはノラが再び話し始めるのを待った。
朝ごはんを食べてからは、いつものようにおじいさんの畑を手伝った。それから、今日はエノおばさんのところへ手伝いに行く約束をしている。ノラは部屋で作業を進めていてよと言ったけれど、ノラは、いっしょに行くと言う。エノおばさんならノラを喜んで歓迎してくれるだろう、ぽかぽかと暖かい道を、二人は一言もしゃべらず歩いた。
エノおばさんは、ノラを見るなり目をまん丸にして驚いた。あんまり驚くものだから、ノラは恥ずかしそうに両手で顔を覆った。
「まあまあ、いったいどうしたのさ」
ノラは答えない。だからリックが、代わりに答えた。
「オリーブとけんかをしたんだって」
「まあ、いったい、どうして?」
「わからない」
リックが首を振ると、そう、と眉根にしわを寄せ、エノおばさんは何度か浅くうなずいて、質問をやめた。それからニッコリと笑う。
リックは耳を疑った。エノおばさんたら、こう言うのだもの。
「けんかをできるなんて、すごいじゃないの」
カラカラと笑いながらノラの頭をなでる。ノラはキョトンとして、けれど慰めにはなったのだろうか、やっと少し笑った。
けんかなんてよくないじゃないか。だのに、どうしてエノおばさんは誉めるんだろう? リックが首をかしげていると、エノおばさんは気づいたらしい、したり顔でわけを言う。
「けんかできるほどカウミル語がわかるってことでしょう。たいしたもんだよ、シド島に来たのはついこのあいだだってのに」
「そうかあ‥‥でも、ノラに理由を訊いてもわからないと言ったよ。オリーブがなんて言ったのか、わからなかったのかもしれない」
「それならけんかにならないよ」
こともなげに一蹴する。どうしてそうなるのだろう。いまいち納得できないリックに、エノおばさんは、いつかわかるさと言った。
「それに、けんかは悪いものじゃないよ。あんただって友だちとけんかくらいするだろう」
「うん」
パッと、バーツの顔を思い浮かべた。エノおばさんは見透かしたかのように、にんまりと口角を上げる。
「わかってほしいことは、伝えなくちゃいけない。それがぶつかることも、ときにはあるのさ」
さあ仕事をしよう。エノおばさんが手を叩く。三人で鶏小屋へ行き、掃除や餌やりをする。ノラは初めてのお手伝いだ。エノおばさんが身振り手振りでやりかたを教え、ノラはテキパキと働いた。
「あんたは筋がいいね。叶うなら、ずうっとこの子たちの世話をしてほしいくらいだ」
動いているうちに気持ちがほぐれたのか、終わるころには、ノラはすっかり笑顔になっていた。
お昼には家に戻ってごはんを食べ、午後からは本を書き写す作業を続ける。ここまではいつもどおりだけれど、今日はオリーブたちが来ない。
ノラとけんかをしているからかな。チラチラと外へ目をやる。開け放した窓からは、小鳥がおじいさんの畑で遊んでいるのが見えた。
真っ青な空には雲一つない。ひんやりした風がそよそよと吹いている。お日さまと海の匂い。午前中は動きっぱなしで、お腹はいっぱいで、ぽかぽかして、二人の頭はうとうとと揺れる。左手は一所懸命に支えていたけれど、いつのまにか机に突っ伏して、どちらが先だったろう、すうすうと寝息が聞こえ始めた。
リックが目を覚ましたとき、ノラはまだ寝ていた。まぶたの腫れはすっかり引いて、どんな夢を見ているのかな、いつもの、いたずらっ子みたいな顔をしている。暖かいけれど風邪を引かないとは限らない。リックはノラの肩に毛布を掛けた。
ケイシーがやって来たのはちょうどそのときだった。窓からそっと覗きこみ、ノラが寝ていると見るや、ぴょんと顔を出す。そしてリックを手招きし、ひそひそ声でこう言った。
「ちょっと出てこられない?」
きっとオリーブのことだな。リックは無言でうなずき、静かに部屋を出た。ダイニングではおじいさんがくつろいでいて、リックは出かけてくるねと声をかけた。
「ケイシーが呼んでいるんだ。ノラとオリーブのことじゃないかな。ノラは今寝ているんだけど、もし起きたら、すぐ戻ると伝えておいて」
「わかったよ」
玄関を出るとケイシーが待っていた。早く早くと、足踏みをして急かす。だけどリックはまず、質問をした。
「オリーブのこと?」
「あら、ノラから聞いたのね」
「うん、けんかをしたって」
「けんかですって?」
ケイシーが驚いたように言うから、リックもびっくりした。
「違うの?」
「オリーブは、ノラが自分勝手だって言っていたわ。でも」
ケイシーは両腕を組み、うーんと考え込む。
「きっと、ノラにはノラの言い分があるのね」
オリーブにはわからなかったんだわ、とケイシーが口をとがらす。なんだかイライラしているようで、珍しいなとリックは思った。
「どうしてけんかになったのか、ケイシーは知っている?」
「うん、オリーブから聞いた。道々話すわ」
二人は早足で家を離れた。暖かくてのんびりした雰囲気とは裏腹に、心は妙に急いている。ノラが泣いた理由を、早く知りたい。
リックの家が見えなくなったあたりで、ケイシーはキョロキョロと用心深く周囲を見渡し、ようやく話し始めた。
「オリーブがね、昨日の夜、このあいだの騒動のことを訊いたの。どうしてまっすぐにリックの家へ行かなかったのって」
ケイシーによると、こうだ。
トビにポシェットを取られてしまったのは、ノラの不運だった。だけど、そもそもどうしてセドじいさんの豚小屋に行ったのだろう。その時点でトビに襲われていたならだれかが気づくはずだ。バーツやエルドレッドたちがいたのだから。
歩いてみたかっただけ、とノラは答えた。それでオリーブは、みんなとても心配したのよ、約束した場所以外のところへ勝手に行ってはダメよと叱ったのだけど、ノラは不満げにほおを膨らせて、返事をしなかった。
次にオリーブはこう提案した。島を歩きたいのなら、いっしょに行きましょう。するとノラは首を振って、こう答える。
「わたし、ひとりでじゆうにあるいてみたいの」
「そんなの危ないわ」
「でも」
「実際に危ない目に遭ったんじゃないの。そのせいでポシェットも本もぐちゃぐちゃになったわ。もう勝手にどこかへ行かないって約束して」
「‥‥いや!」
それきり、ノラは口をきかなくなってしまった。オリーブは頭にきたのだけど、ノラが謝ってきたら許そうと思っていた。だのにノラときたら、寝るときになっても、朝になってもふてくされている。そのうえ朝ごはんを食べる前にいなくなってしまって、オリーブはお母さんに事情を説明しなくてはならなくなった。
ケイシーは言う。
「オリーブは正しいと思うの。だけど、なんだかわからないけど、ちょっぴりいやだったわ」
悲しそうな声だった。
リックにとってもオリーブは大切な友だちで、お姉さんみたいな存在だ。ノラの面倒を見ているのもオリーブだ、ノラを心配して言っているのはわかっている。だけど。
話しているうちにオリーブの家に着いた。庭に置かれたベンチで、オリーブとオリーブのお母さん、それからドリーが話しこんでいた。リックが挨拶をすると、オリーブのお母さんが歓迎してくれた。
「ノラちゃんはどうしてる?」
「ぼくの家で寝ているよ。朝、エノおばさんのところでいっしょにお手伝いをしたんだ。疲れちゃったみたい」
「そう」
ホッと胸をなで下ろす。また一人でどこかへ行ってしまわないかと心配していたみたいだ。今は家におじいさんがいるから大丈夫だろう。
それで、とオリーブのお母さんが切り出す。
「ノラちゃん、リックくんのおうちに移ったほうがいいのかもと考えているの。本人もそう言っているんでしょう?」
「はい。でも‥‥」
オリーブを見やる。うつむいたまま、ひざに置いた手はギュッと握りしめている。
「オリーブは、どう思っているの?」
「‥‥ノラが謝ってきたら、いっしょに暮らせるわ」
「なら、仲直りは無理だわね」
口を挟んだのはドリーだった。オリーブが鋭いまなざしをギッと向ける。でもドリーは気にも留めない。
「わたしはオリーブもよくないと思うな! 一人で歩きたいと思うことはなにも悪くないもの。なのに、どうしてオリーブに謝らなくちゃならないの?」
「だって、あのポシェットはお気に入りだったのよ」
「それとこれは別でしょ。それに、ポシェットのことは何度も謝っていたじゃない。だのにわざわざ引き合いに出すなんて、ポシェットを言い訳にノラを従えさせたいんだわ」
肩をすくめて首を振る。口ぶりはひょうひょうと、どこかおどけているのに、言っていることはナイフのように鋭い。
それがよくなかったみたいだ。
「わたしが悪いって言うの?」
オリーブが憤然として立ち上がる。ドリーはキョトンと目を丸くして、そんなこと言ってないわ、と答えた。だけどオリーブは聞かない。プリプリしたまま、家のなかへ入ってしまった。オリーブのお母さんもそのあとを追う。
「わたし、またよくなかったかしら」
「そんなことないよ。オリーブも、きっと本当はわかっているよ」
うなだれるドリーをなぐさめる。ドリーの言ったことは正しいと思うし、オリーブも優しい子だもの。きっと大丈夫だ。
ところが、いつでも都合よくは運ばない。
帰ろうとした三人のところへ、バーツが手を振りながら、息せき切って駆けてくる。なにかあったのだろうか、大慌てで、表情は険しい。
胸騒ぎがした。
「おいリック、来たぞ!」
「来たって、なにが?」
「船だよ! シーフィシュ国の船が来たんだ!」
エドワード卿が、ノラを迎えにやって来たのだ。