リックとマモノのエサのノラ
五 森のマモノ使いエドワード卿のマモノは次々と戻ってきて、二人を案内した。やがて森を抜け、山のふもとにたどり着く。かつてだれかが生活していたのか、ぼろぼろの小屋があった。しかし今は無人のようだ、マモノたちは目もくれず、素通りする。
少し進むと湧水に行き当たった。森のなかを流れる川の源流だ。思うがままに枝葉を伸ばした木々に囲まれ、苔むした岩の上を冷たい水がさらさらと流れる。澄んだ空気のなかを木漏れ日が踊る、おそらく、シド島で一番美しい場所だ。エドワード卿が感嘆の声を漏らした。
「こんな場所があったなんてなあ」
「野生の動物もいるし、木の実も採れます。村から離れているから滅多に人は来ない。隠れるにはもってこいですよ」
「ふむふむ、なるほどね」
大人がいないと来られない場所だから、リックもまだ二、三回しか来たことがない。森のマモノ使いのことがなければ、たぶん二人とも、しばらくここに留まりたかった。
マモノはまだまだ進む。
足場がだんだんと悪くなってきた。草がぼうぼうと好き勝手に伸び、木の根が二人を阻もうと隆起する。鹿かイノシシか、獣の走る足音、上空で旋回するトビの鳴き声が、おどろおどろしく響いた。
三〇分くらい歩いて、二人は頂上に着いた。そこではエドワード卿のマモノたちが群れをなして二人を待っていた。ひどい臭いだ、ニンジンの食べかすや腐ったジャガイモが散乱している。しかし人の姿はない、リックは首をかしげる。
「だれもいませんね」
「ははあ、わかったぞ」
「えっ？」
エドワード卿がひげをなでながら、したり顔で言った。卿が指さす方向から、獣の鼻息が聞こえる。エドワード卿はマモノたちをそっと寝床にしまい、代わりに別の、つまりシングルのマモノを出した。
「大きくなれ」
ぐぐぐ、とマモノたちが大きくなる。そしてそっと鼻息の主に近づくと、一斉に命令を出した。
「このブタを捕まえろ！」
マモノたちが、ワッと飛びかかった。
エドワード卿の声に驚いて、ブタが飛び跳ねた。しかし事態をすぐに察したらしい、低い声でうなると、たくさんのマモノがブタをかばわんと集まってきた。そのすきに、ブタは山肌を滑るように逃げていく。
エドワード卿が走り出す。リックも慌てて追いかけた。しかし逃げ足の速いこと速いこと、地の利もあって、ブタとの距離はどんどん伸びる。体重はもちろん、体長もリックを上回りそうなくらい大きな図体なのに、俊敏な動きで、木々のあいだを縫うように駆けていく。
ブタのマモノを押しのけて、エドワード卿のマモノが追いついてきた。マモノは跳んだり跳ねたり転がったりとすいすい前進する。しかしブタのマモノもがんじょうだ、われらが主君を守らんと、必死で二人を追ってくる。
ブタにもエドワード卿にも引き離され、追いかけるのにいっぱいいっぱいで足下をよく見ていなかったために、リックは木の根に足を引っかけて転んでしまった。とっさに木の枝に捕まってこらえたけれど、一歩間違ったら傾斜を転げ落ちるところだった。
追いかけてきたブタのマモノのうち、半分くらいがリックめがけて飛びついてきた。握り拳くらいの大きさの、小さなマモノたちだけど、とても痛い。おろおろしながら鞄から寝床を出し、一つ開ける。エドワード卿ほどではないけれど、たくさんのマモノがわらわらと出てきた。
「助けて！」
リックが叫ぶと、マモノはぷくーっと膨らみ、盾になった。だけどブタのマモノの攻撃はやまない、リックのマモノをはじき飛ばして突進してくるものもある。
リックは少し考えて、すぐに気がついた。そうか、ブタのマモノは三種類ぜんぶ混じっていて、今ぼくが出したのはダブルかトリプルなんだ。ダブルならシングルに、トリプルならダブルとシングルには負けてしまう。
シングルを出せば勝てるかもしれない。だけど、どれがシングルなんだろう？ 一度逃げたほうがいいかもしれない、でも、どうやって？
悩んでいる時間はない、いや、いい方法をひらめいた。リックは残る二つの寝床を開けて、すべてのマモノを出した。
そして全員に、こう命令した。
「ブタのマモノを攻撃しろ！
ぼくを守れ！
ぼくをここから逃がせ！」
リックのマモノたちは一斉にブタのマモノを攻撃し、次に三分の二くらいがリックの盾になり、さらにその半分が、リックを持ち上げて素速く斜面を駆け下りた。
かくして無事に逃げ出したリックは、自分を安全な場所まで運んでくれたマモノにお礼を言って、寝床にしまった。これでわかった、はさみ入れにしていた箱の彼らは、トリプルだ。任務を完了し、あとからぽてぽてとついてきたマモノはダブル。シングルは今もブタのマモノと戦っている、あとで迎えに行こう。
地べたに座りこみ、ダブルを寝床にしまいながら、息を整える。あちこちぼろぼろ、どろどろだ。耳を澄ませると走り回る足音が聞こえる。ブタとエドワード卿だろう、音のするほうに目をこらす。
下のほうだ。ぐるっと下ってきたらしい。
「ブタが、マモノ使いかあ」
一人言つ。マモノ使いが人じゃないだなんて、考えもしなかった。
ブタといえば、セドおじさんが、昔ブタが飼育小屋から逃げたんだと聞いたことがある。マモノが柵を壊したのだ。ずっと森のマモノ使いの仕業だと思っていたけど、そのとき逃げたブタがこのマモノ使いなのかもしれない。
リックは自分に置き換えて考えてみた。もし自分があのブタだったら。ただのブタだったらなにもできないけど、マモノが助けてくれるなら、ぼくもきっと逃げる。だっていつかは食べられてしまうのだもの。そして家族も助けたい、なんとかしてみんなを逃がそうとするだろう。人を驚かすのはいけないこと、田畑を荒らすのも悪いことだけど、ブタからすれば人は敵だ。『悪いマモノ使い』だと思いこんでいたけれど、それが生きるためのすべだったなら、一概に責めることはできない。
だけど村が『森のマモノ使い』に困っているのもたしかだ。なんとかしなくてはいけない――なにがよくて、なにが悪いのか。リックは悲しい気持ちになった。
とにかく、いったん終わらせよう。
大きく息を吸い、ゆっくり立ち上がる。音は近づいてきている、うまくすれば待ち伏せできる。慎重に、まっすぐ坂を下りた。
傾斜を降りきったところでマモノを寝床から出し、木の陰に隠れて待つ。迫る足音。ブタが走ってくる。リックはゴクリとつばを飲み、一、二の、三、で叫んだ。
「ブタを捕まえろ！」
いきなり現れたリックたちに驚いて、ブタが急ブレーキをかける。しかし急には止まれない、すかさずマモノが飛びかかり、ブタの手足にまとわりついた。
「行け！」
エドワード卿も叫ぶ。一番大きなマモノがブタの眼前に回りこみ、ほかも次々にブタを取り囲んで逃げ場を奪う。ブタの魔物が追いついてきたが、エドワード卿のマモノにはどうやら敵わないようだ。
観念したらしい。ブタは、ようやくおとなしくなった。
リックたちが村に戻ると、待ち構えていたケイシーやバーツがすぐさま走り出して、村中に帰還を伝えた。みんな待ちかねていたのだろう、大人たちは畑仕事や家畜の世話を放り出して、我先にと集まってきた。そしてエドワード卿のマモノが担いできたブタを見て、目を丸くして驚いた。
セドじいさんが驚嘆の声を上げる。
「あれ、こいつ、チロじゃないか」
「ご存知で？」
「おれのブタだ、五年くらい前に逃げたんだ」
「もっと前だよ、ぼくが島に来る前だもの」
リックが訂正した。セドじいさんが首をかしげつつ指を折る。みんながくすくすと控えめに笑うのをよそに、リックは続ける。
「セドじいさん、名前、覚えてたんだね」
「当たり前だあ。こいつは生まれたばっかりのころは病気ばかりしてよお、手がかかったんだ。逃げ出したときはびっくりしたし、とっくに死んじまったと思ってたけど、でっかくなったなあ。なんだ、おまえがマモノ使いだったのか。立派になったんだなあ」
セドじいさんがごつごつした手でブタをなでる。走り回って疲れたのか、もう諦めているのか、ブタは二回まばたきをしただけで身じろぎもしない。
「ねえ、チロ、殺しちゃう？ 食べちゃうの？」
「それは、うーん‥‥」
セドじいさんが口ごもる。ほかの村人たちも顔を見合わせて、肩をすくめたり、首を振ったり、困っているようだ。人相手なら捕まえて罰も与えられる、今までの埋め合わせに働かせることもできるけれど、まさかブタがマモノ使いだったなんて、拍子抜けもいいところだ。
答えあぐねる大人たちを見かねてか、エドワード卿が提案した。
「すぐに決めなくてもいいでしょう。チロくんもすっかりくたびれたようです。小屋まで運びましょう」
ね、とウインクする。リックはもちろん、セドじいさんも、心なしかホッとしているように見えた。
「さて、こんなことで恐縮ですが、お詫びになったでしょうか。もしまたなにかあればご連絡ください。わたしが、いつでも喜んで参ります」
満面の笑みで宣言したエドワード卿に、村人たちは、そんなわざわざとんでもない、かえって申し訳ないと答える。リックは思わず笑い出しそうになった。本当は用がなくても呼んでほしいに違いない。
ケイシーだけは素直に堂々と、お暇なときはいらしてください、と呼びかけた。
ぼろぼろのどろどろになったリックをエノおばさんが手当してくれているうちに、エドワード卿は出航の準備をすっかり終わらせた。旅人は身軽にしているものさ、と人差し指を立てる。ケイシーじゃないけど、エドワード卿はたしかに、とてもすてきでかっこいい。エドワード卿みたいになりたいと思った。
あかね色に染まった空、太陽は西の海に沈もうとしている。船では十人のマモノ使い――もとい、元マモノ使いたちが、苛立ちをあらわにしていた。待ちくたびれたのだろう。船乗りたちに見張られて少し降りることもできなかったのか、一人は気分が悪そうだ。
いよいよ船を出すというとき、エドワード卿が元マモノ使いたちに問いかけた。
「本当に、――あ、‥‥」
気がついて、リックたちにはわからない言葉、おそらくシーフィシュ語で言い直す。険しい面持ち。胸がざわざわした。
エドワード卿はあの人たちのことが嫌いに違いない、ずっとニコニコしているのに、あの人たちと話すとき、あの人たちの話しをするときは、顔つきが変わる。
話は終わったらしい。卿は小さくため息をついてから、村人たちに向き直り、にこっとほほ笑んでから深々とおじぎをした。
「それでは、また」
ゆっくりと船が岸を離れる。村人たちは船が見えなくなるまで、手を振り続けた。
森のマモノ使いが捕まってめでたしめでたし、今夜からは安心して眠れるぞと村人たちが喜ぶなか、リックは大変なことに気がついた。
シングルを森に忘れてきてしまった。
