リックとマモノのエサのノラ
七 置いてけぼりの子マモノ使いが出てきたら戦え、と命令をしたのに、シングルたちは動かない。命令が悪いのかな、それともマモノ使いじゃないのかな。群がっているマモノたちはおとなしい。息を殺し、恐る恐る近づく。
考えてみれば、あちらがなにもしてこないなら、黙って立ち去ったってよかった。だけどリックはそうしなかった。恐怖心より好奇心が勝っていた。もしかしたらなんとなく予感がしたのかもしれない――いいや、やっぱり、ただの好奇心だ。
リックの好奇心は、その子にとって幸運だった。
木の根元にその子はいた。泥だらけの体を猫みたいに丸めて、苦しそうに息をしていた。見つけたときはびっくりして、リックも、リックの心臓も、ぴょんと大きく跳びはねた。
「大丈夫?」
こわごわ話しかける。返事はない。眠っているのかなと思うと同時、うっすらと目を開いた。けれどそれでも、返事はない。黒目だけがゆっくり、リックを見た。
ピンときた。そうだ、シーフィシュ国の調査隊にはリックと同じくらいの子もいた。きっとこの子だ。なんてことだろう、この子は置いていかれたんだ!
「ねえ、きみ、立てる? 歩ける? どう?」
大きな声で呼びかけたけれど、やっぱり返事はないし、うなずきもしない。わずかな反応といえば、目線は音もなく地面に落ちて、まぶたが閉じられたことくらいだ。背筋を冷たいものが伝う。
直感した。死んでしまう。
シングルに別の命令を出す。
「この子を連れてきて」
シングルたちは力を合わせ、その子をひょいと持ち上げた。トビたちに注意を払いながら、やっと見つけた道に歩を進める。リックのあとをシングルたちがついてきて、そのあとを、その子に群がっていたマモノたちがとぼとぼとついてくる。
トビがピイピイけたたましく鳴いた。そうか、この子が死ぬのを待っていたのかもしれない。リックは泣きそうになった。こんな寂しい森で、ひとりぼっちで置いていかれて、目をぎらぎらと光らせるトビたちに囲まれて。どんなに怖かったろう、心細かったろう。
足早に、けれど引き離したりしないように、慎重に。一時間はかからなかったけれど、三〇分以上はかかった。
家に着くとおじいさんが仁王立ちで腕を組み、待っていた。リックがいないことに気づいたのだろう。リックの姿を認めるなりホッと胸をなで下ろし、次にはくわっと目を見開いて怒ろうとした。
だけどすぐにその子に気づいたから、怒るのはあと回しにした。ルールを破って森に入ったこと、そうしたらこの子が倒れていたこと、早く手当てをしないと死んでしまうかもと泣くリックをなだめて、家へ入れてやった。
家のなかは暖かだった。天井から吊した電灯がじりじりとうなる。
お母さんのベッドを使うことにした。布団に泥が染みないよう、分厚い大きなタオルを敷いて、その上に寝かせる。かわいそうに、その子は目を閉じたまま、ウンウンと苦しそうに顔をゆがめている。
「お湯を沸かしておくれ、たっぷりだよ。さて、着替えさせないと――なんてこった、女の子だ。
リック、鍋はわたしが見るから、エノおばさんを呼んできておくれ」
リックはひとっ走りしてエノおばさんの家を訪ねた。エノおばさんはとっくに寝入っていて、リックが呼ぶ声で起きたけれど、目をこすりながらとても不愉快そうに出てきた。
「なんだい、リックかい。いくら恩人でも、こんな夜中に来られちゃあ歓迎はできないよ」
「ごめんなさい、エノおばさん。でもおばさんにしか頼れないんだ」
リックがわけを話すと、エノおばさんの頭もたちまち覚めた。いったん部屋へ引っこんでコートを羽織り、鶏舎へ寄って卵を二つ拾うと、早足でリックたちの家へ向かった。
家ではおじいさんがあたふたと働いていた。タオルを沸かしたお湯に浸して絞り、女の子の手足を温めながら拭う。けれどお湯はまたたくまに真っ黒になるからどんどん沸かさなくてはいけないし、井戸から水をくむのだって一苦労だ。エノおばさんが女の子の手当てを引き受けてくれて、ようやく少し余裕ができた。
「スープを用意して。この卵を使うといいよ。着替えがないねえ、ひとまず、リック、あんたのもので、きれいなのを貸しておくれ。夜が明けたら女の子のおうちを回って、貸してもらおう」
三人は大忙しで働いた。その甲斐あって、女の子はすっかりきれいになり、夜が明けるころには目を覚ました。ボウルにスープをよそって差し出すと、おいしそうにペロリと平らげ、また眠ってしまった。さっきとは打って変わって、気持ちよさそうな寝顔だ。それを見てみんな安心した。
「やれやれ。それじゃあ、わたしは帰るからね」
「ありがとう、エノおばさん。お礼に、あとでお手伝いに行くね」
「それは助かるよ。だけど、あんたもまずは寝るんだよ。あんたみたいな子どもがくたくたになるまで働くなんて、本当はよくないんだから」
エノおばさんが帰ると、おじいさんからも寝るようにと言いつけられて、リックは自分の部屋に戻った。ベッドに入ろうとして、そうだ、マモノたちを寝床にしまわなくちゃ、と思い出す。三つの箱を開け、マモノたちが収まっていくのを見守った。
ところが、どうしたんだろう。ずいぶん手間取っている。よく見ると、マモノの数が倍くらいに増えている。どうして急に?
もっとよく見てみる。リックのマモノじゃあない。あの女の子といたマモノだ。どうしてリックについてきたんだろう?
首をかしげているうちに、マモノたちは寝床に収まった。リックはベッドに横になってしばらく考えていたけれど、やがて寝てしまった。
いい匂いがして目を覚ましたとき、窓の外を見ると、太陽がちょうどてっぺんにあった。どこの家でもお昼ごはんを食べているんだろう、人影はない。風が穏やかに吹いている。
ダイニングへ行くと、もう食事の準備ができていた。おじいさんが作ったスープとサラダ、デリックのおうちで買ったパン。お腹がペコペコだから、いっそうおいしそうに見える。
けれど喜んでいすに座ろうとしたリックを、おじいさんはたしなめた。
「先にあの子のようすを見てきなさい。今は、なによりあの子のことを気にかけてあげなくてはいけないよ」
リックはハッとしてうなずき、女の子の眠る部屋へ向かった。ノックをしたけれど返事はない。まだ寝ているのかもな。そっとドアを開ける。
なんだかふしぎな気持ちになった。
閉じたカーテンが窓の形に光っている。机の上には広げたままのノートと辞書。棚にあるたくさんの本たちは、女の子を起こさないように息を潜めている。ベッドは長いことだれも使っておらず、クッションや、お母さんが好きだったぬいぐるみが飾ってあるだけだったのだけど、久しぶりに、本当に久しぶりに、人が寝ている。
女の子はすうすうと寝息を立てて寝ていた。黒いさらさらの髪には、まだ少し泥が残っている。着ているのはリックの服だけれど、少し大きいみたいだ。何歳なんだろうな。ぼくと同じくらいに見えるけれど。どうしてあんなところで、一人でいたんだろうな。シーフィシュ国の調査隊たちは、この子がいないことに気づかなかったのかな。
髪についている泥をそっと取り除く。あ、と思った。起こさないように気をつけたつもりだったのに、女の子はパチリと目を開いた。
「お、おはよう」
どぎまぎしながら声をかける。女の子はリックをまっすぐに見つめ、それからゆっくりと周りを見た。視線は、たぶんだけれど、ベッドの横の机、そのとなりの本棚、木製のドア、古くなった花柄の壁紙、明るいカーテンへを、順に巡った。
上体を起こそうとして、だけどすぐパタリと倒れた。慌てて支え、またベッドに寝かせる。まだよくないんだな。そうだ、またごはんを食べたら、もうすこしよくなるかもしれない。すぐに戻るからねと言って部屋を出た。
けれど気配がして振り返ると、女の子がついてくる。ただでさえよろよろしているのに、だぼだぼのズボンは裾を引きずっていて、とても歩きづらそうだ。
「食事を持ってくるから、ベッドで待ってて」
そう言ったけど女の子は困ったように首をかしげ、うつむき、もじもじとなにか言った。なんて言ったんだろう、わからなかった。声が小さいからだと思って聞き返して、三回目で気づいた。
そうか、シーフィシュ語だ!
女の子のほうもリックがなにを言ったのかわからなかったに違いない。これは困った。とにかく部屋で待っていてとは言えなくて、手を繋ぎ、二人でダイニングへ戻った。
二人の姿を見ると、おじいさんはニッコリとほほ笑んだ。
「ああ、よかった。具合はどうかな?」
女の子はやっぱり困って首をかしげ、リックも眉をハの字にした。おじいさんはすぐに気づいた。
「そうか、シーフィシュ国の子だものな。困ったなあ‥‥まあ、とにかくよかった。どれ、食事の前に、家のなかを案内しようか」
そう言って手招きする。
まず、ここがダイニング。奥がキッチン。廊下へ出て、左手に玄関、右手に進むとそれぞれの部屋がある。すぐそこのドアはお風呂、となりがトイレだ。
そこで女の子がなにか言ったから、リックにもわかった。そうか、起きたばかりだものな。自分だってそうなのに、どうして気づかなかったんだろう。もじもじしていたのは、恥ずかしかったからかもしれない。申し訳なくてうなだれた。
同時に、言葉が通じないのはなんてやっかいなんだろうと痛感した。わかってしまえばこんなに簡単なことがわからなかった。
エドワード卿は本当にすごい人だ。カウミル国の出身なのに、シーフィシュ語もタキクク語も話せるのだから。そのうえ心がけの正しい、立派な人だ。マモノの気持ちが少しわかった気がした。ぼくだってついていきたいもの。
女の子を待つあいだにそんなことを考えていたら、おじいさんがぽつりと言った。
「また、シーフィシュ国の王様に手紙を出さないといけないなあ」
「この子を、迎えに来てくださいって?」
「そう。でも前のときで、手紙を出してから五日かかった。今度もそれくらい、もしかしたらもっとかかるかもしれない。それまで、あの子とどうやって話をしたらいいやら」
頭をボリボリとかき、ため息をつく。リックも両腕を組んで考えた。短くて五日。ぼくらも困るけれど、もうずいぶん怖い思いをしたろうに、知り合いもない、言葉もわからない土地で一人きりなんて、心細いだろうな。だけど、幸いシーフィシュ語だ。お母さんの部屋には、シーフィシュ語の本がたくさんある。本が好きなら、退屈はしないで済むかもしれない――いや、待てよ。
ひらめいた。おしゃべりも、そんなに難しくないかもしれない。
「紙に書いて、調べながらおしゃべりすればいいんじゃないかなあ」
「そうか、筆談か。それはいいアイディアだ」
おじいさんがうなずくと、リックは小走りにお母さんの部屋へ向かった。机の上の辞書と鉛筆を取り、ノートは新しいものを出した。戻るとおじいさんと女の子はもうダイニングにいて、リックを待っていた。
リックはノートの一番最初のページに、シーフィシュ語でこう書いた。
「ぼくの名前はリックです。きみの名前を教えてください」
すると女の子はうれしそうに笑顔を浮かべて答えた。
「ノラ」
「ノラ?」
手を伸ばすからノートと鉛筆を渡した。女の子はさらさらと、丸っこい字でシーフィシュ語を綴った。名前のほかはリックが書いたのと同じだったから、すぐに読めた。
感激だ。一発で覚えたぞ。そうか、ノラってこう書くんだな。
「わたしの名前はノラです」