リックとマモノのエサのノラ
十三 ワクワクと安心枯葉たちの上に残された足跡に、滑ったような形跡はない。こういう道に慣れているのだろうか、走れば追いつけるかもだなんてとんでもなかった。この森にはぼくたちのほうが詳しいはずなのに、ノラはずいぶん身軽なんだな。
強い風。森の奥から、ざわざわと葉のこすれる音が駆けてくる。不揃いの雨粒たちは宙を舞い、手や肩、髪や顔に落ちてくる。
子どもだけで川の向こうへ行ってはいけないことをノラは知らない。森へ遊びに入ったことがないし、どう伝えていいかもわからない。
トリプルは枝から枝、根から根へと一足飛びに移っていく。リックとバーツ、ケイシーの三人は、必死に追いかけた。なにしろ地面がぬかるんで、ちょっと気を抜くと足はズブズブと沈んでいく。ひとたび沈んでしまえば、靴を両手で引っ張らないと抜けないくらい重たい。おかげでちっとも進みやしない。じれったい、もどかしい。
「ノラったら、なにかすてきなものでも見つけたのかしら」
「すてきなもの?」
リックが聞き返すと、ケイシーはフウフウと肩で息をしながら、そうよとうなずいた。
「わたしが初めて一人で森に入ったときはね、チョウチョウを追いかけてたの。羽がとってもきれいだったのよ。うっとりして、夢中で追いかけていたら、いつのまにか森のなかだったの」
「ああ、あのときは大騒ぎだったなあ。ケイシーがいなくなったって」
バーツがからかうように笑う。ケイシーは肩をすくめてはにかみ、それよりノラよ、と仕切り直す。
「今日の森はいつもと違うわ。雨のあとだからかしら、キラキラして、ひんやりして。ほら見て、野ウサギやリスが、エサを探して一所懸命働いているわ。ノラはきっと、動物たちを追いかけていったのよ」
「おれは、冒険に出たんだと思うな!」
バーツが楽しそうに言った。
「森を探検したかったんだと思う。今までずっとだれかといっしょだったんだろう。初めて一人になったから、こっそり森へ入ったんだ」
「ノラはバーツとは違うわ!」
ケイシーが抗議するも、バーツは首を振る。
「あいつは度胸がある。宝探しに行ったのかもしれないぞ」
「宝探しかあ」
なるほどなあ、とリックは思った。バーツたちからの贈りものを、ノラはいつも喜んでいた。それに、ケイシーの言うとおり、今日の森はいつもと違う。まるで違う国、違う星に来たみたいだ。
「なんだかワクワクしちゃうね」
白い星に着いたとき、ずっと夜の星に降りたとき、猫のノラはきっとこんな気持ちだったんだろう。見たことのない景色、嗅いだことのない匂い、新しい世界!
もちろんこの森は、まるきり知らないわけじゃあない。それにこの前みたいに真夜中だったら、一人きりだったら、ワクワクなんてしていられなかった。今は明るいし三人だし、帰ろうと思えばすぐに帰れる。ノラを探さなきゃと焦ってはいるけれど、落ち葉の上にくっきり残るノラの足跡が、少し先で待つトリプルたちが、必ず見つかるよと励ましてくれる。
「安心してワクワクできるよ」
「なんだよ、それ」
うっかり口からこぼれたそれを聞いて、バーツがケラケラと笑った。
「安心してワクワクなんて、まるであべこべじゃないか」
「あら、そうかしら」
ケイシーが言う。
「リックの気持ち、わかるわ。どうなるかわからなくて不安なときって、うまくワクワクできないもの」
「そうかなあ」
頭をボリボリとかきながら、バーツが口をとがらせる。
ケイシーはすぐにわかってくれるなあ、とリックは感心した。心のうちの、うまく言葉にできない気持ちを、上手に説明してくれる。
マモノのこともそうだ。マモノ使いではないノラがマモノにごはんをあげられると知って、ケイシーは自分もそうなれないかと考えた。リックのことを思ってだ。よく気がつく、とても賢い子だ。
しかしだからといって、バーツの言うことがわからないわけじゃあない。バーツは、未知のものこそ魅力的でたまらないんだ。大人たちのシド島調査隊に加わったときだって、大人たちがけんかを始めるまではぜんぜんへっちゃらだった。
どうしてそんなに無茶ができるのだろう。危なっかしいけれど、本人はちっとも気にしない。
そんなことを考えていると、不意にバーツの声が響いた。
「あっ! おい、止まれ!」
リックとケイシーの襟ぐりを掴み、強引に止める。あんまり急だったから危うく尻餅をつくところだった。
バーツは目をギロリと光らせ、あごで前方を示す。少し盛り上がった土の上で、細い木が奥のほうへ傾いている。
「あの向こうはちょっとした崖になっているんだ。でもこのあいだまでは、あの木はまっすぐに立っていた」
さっきまでとは打って変わって、低い真剣な声。ゴクリとつばを飲む。
「土壌が緩んでいるんだ、土砂崩れが起きるかもしれない。危険だぞ」
ギョッとした。注意深く周囲を見てみると、ほかにも傾いている木がある。見慣れないような気がしたのはこのせいかもしれない。
しかし、困った。
「マモノはあそこにいるよ」
トリプルはその木の枝にいた。マモノは軽いから、崩れそうな土の上でも平気だ。だけどリックたち人間の重さには、きっと耐えられない。
「ノラはここを通っていったのかしら」
「まさか。崩れてなくても崖だぞ、そう簡単には降りられない。あしあとをよく見るんだ、ほら‥‥近くまで行って、引き返してきているな。こっちだ」
バーツの観察眼に舌を巻く。たしかに、ノラの足跡は木の根元まで行っているけれど、降りられないと思ったのだろう、少し戻って別の道へ進んでいる。
「さすがだね」
「この森はあらかた回ったからな」
「威張ることじゃないわ、ルール違反よ」
得意げに鼻を鳴らすバーツに、ケイシーはあきれ顔で肩をすくめる。大人には内緒だぞ、と慌てて付け足したけれど、その実、みんな知っている。もちろん、リックとケイシーもだ。
森のマモノ使いを捕まえてからというもの、バーツはしょっちゅう森を探検している。村からいなくなるからみんな気づいているのだけど、言ってもどうせ聞かないだろうと放っている。本当のことを言うべきかどうか悩んだけれど、ケイシーと目配せして、やっぱりこのまま黙っておこうと決めた。
傾いた木の向こうも、どうやら変容していた。背の高い木が伸びていたはずなのに、彼らがのけぞったものだからずいぶん風通しがよくなった。青い空と海が見えている。木々を住処にしていたリスや鳥たちが右往左往している。
さて、ノラの足跡を追うかと思いきや、バーツは違う道を選んだ。
「あの道はぬかるみすぎて、おれだけならまだしも、おまえたちじゃ歩けないよ」
緩やかに下る道。こちらも決して歩きやすくはないけれど、どろどろの坂道を進んだらどうなるかくらい、リックにも予想はついた。ひとたび足を滑らせたら、ケイシーの長靴だって役に立たないだろう。
ぐるりと回り道して、再びノラの足跡を見つけた。トリプルたちもいっしょだ。ふと見上げると、さっきリックたちが見た傾いた木が、屋根よりも高いところにある。かわいそうに、土がえぐれて根っこがむき出しになっている。崖の下の木たちは悲しそうにうなだれている。
崩れた土は木々のあいだを縫うように滑り落ちていた。泥には落ち葉はもちろん、まだ緑の葉っぱも混じっている。ゴロゴロした石、大きな枝、鮮やかな緑の苔。足の先で触れると、グズグズと沈んで水が染み出た。
バーツがいなかったら、なにも知らずにここを歩いていたかもしれない。さっきのケイシーの言葉が、胃の腑にすとんと落ちた。
バーツは知っているんだ。この森をたくさん歩いて、冒険して、見つめてきたから、わかっているんだ。けがをするかもしれないことも、なるべくしない方法も、もしけがをしたらどうしたらいいかも、きっとわかっている。だから勇気を持って前へ進めるんだ。
冷静沈着なケイシーと、勇猛果敢なバーツ。二人が来てくれて本当によかったと、リックは感謝した。
また少し降りると、浜辺に出た。海が荒れたからか、海藻や木材、ゴミなど、いろんなものが打ち上げられていた。
ノラはそこにいた。大きな岩に、海のほうを向いて腰掛け、なにやら一所懸命に泥を払っていた。
「ノラ!」
リックが叫ぶと、ノラの体はビクッと飛び跳ねた。慌てて振り返った顔は涙でぐしゃぐしゃだ。リックを見ると、持っていたなにかを背中に隠した。
駆け寄って、びっくりした。ノラの顔に三本のひっかき傷がついている。服は泥だらけであちこちほつれ、綿埃みたいな羽毛がそちこちについている。これはなんの臭いだっただろう、覚えのある臭いがした。
「なにかあったの、ノラ?」
リックが尋ねるも、ノラはうつむいて答えない。ケイシーがポケットからハンカチを取り出して、ノラの涙を拭いた。
さっきまでのワクワクした気持ちは、どこかに消えてしまった。
転んだようなあとはなかったのに、どうしてこんなに泥だらけなんだろう。けがまでしている。なにがあったんだろう。だけどノラは泣いてばかりで、しゃべろうとしない。不安で心がグラグラ、ゆらゆらと落ち着かない。しくしくと静かに泣くノラを見ていたら、リックまで悲しくなってしまう。
それで、努めてとびきり優しい声で言った。
「もう大丈夫。帰ろう、ノラ」
するとノラは、バッと顔を上げた。まんなかだけをギュッと結んだ口から嗚咽が漏れる。ぐにゃぐにゃにうるんだまなざしで、おびえながら、背中に隠したものを差し出す。
ポシェットと本だった。ポシェットはおそらくオリーブから借りたもので、本は、リックのお母さんのものだ。真っ黒に汚れている。
「おおきなとりにとられたの、とりかえしたの、だけど」
ああ、思い出した。トビの臭いだ。
「もしかして、トビに襲われたの?」
トビという呼び名がわからなかったのか、ノラは目をぱちくりさせた。
あの夜。ノラが息絶えるのをじっと待っていたトビたち。ぎらぎら光る目は、今思い出しても恐ろしい。
トビたちはどうして今、ノラを狙ったんだろう。いいや、考えるまでもない、ポシェットを狙ったんだ。食べものが入っていると思って。長く雨が続いたから、食べるものが欲しかったんだ。珍しいことじゃあない。
くちばしでついばんだのだろう、ポシェットはぼろぼろだった。本も引っかかれたり破けたりしている。
「ごめんなさい、だいじなほんなのに」
ついに大泣きを始めた。お母さんの本を、リックが大事にしていた本を、こんなに汚してしまったことを、ノラは申し訳なく思っているのだ。そうわかったら、リックは、とても安心した。
「いいんだよ、ノラが無事なら」
ほほ笑み、ノラの頭をなでる。顔の傷が痛々しい、おじいさんに手当てをしてもらおう。黒い髪にも羽が絡まっている、早く帰って洗おう、服も着替えよう。たくさん歩いたからお腹も空いているだろう、ごはんを食べよう。
「たしかに大事な本だけど、それより、ノラのほうが大事だ」
リックが言うと、ノラのほおはホッとしたように緩んだ。それなのに涙はもっと出てきたから、リックとバーツは大慌てだった。
ケイシーだけは、ノラに寄り添ってニコニコしていた。
本がぼろぼろになってしまったことは、ちっとも気にならないわけではなかった。リックはいつか読みたいと思っていたし、おじいさんはお母さんの本を宝物みたいに思っていたから、落胆を隠せなかった。
ノラも、気に病んでいるようだった。丁寧に泥を払い、天日で干して乾かすのを、ぼんやりと眺めていた。せっかくカウミル語を覚えたのに、すっかり無口になってしまった。
「元通りには、ならないだろうねえ」
おじいさんが言う。リックもノラも、肩を落とした。
「でも、リックの言うとおりだよ。ノラさんが無事でよかったんだ。この本のためにノラさんになにかあったとなれば、わたしは、あの子に顔向けできないよ」
言い聞かせるような声と細めた目が、お母さんを思い起こさせる。そうだ、お母さんもきっと、同じことを言う。心がほんのり温かくなった。
そうだ、いいことを思いついた。
「ぼく、あの本がどんなお話なのか、知らないんだ」
なおもうなだれるノラに、リックは提案する。
「だから、ノラ。あの本のお話を教えてくれないかな」