リックとマモノのエサのノラ
二 シド島調査隊エノおばさんの手伝いがなくなると、リックには自由な時間ができた。手伝いを始める前はなにをしていただろうか、おそらく畑仕事か読書なのだけど、おじいさんは今までどおりの手伝いで十分だと言うし、家にある本はもうほとんど読んでしまった。
読んでいないのは、カウミル語以外で書かれていて読めないものだ。お母さんがいればきっと翻訳してくれたろうけれど、もういない。カラフルな絵本、ずっしりと重い小説、これはきっと勉強の本、たくさんあるけれど、なんて書いてあるのかわからない。
リックは思いついた。そうだ、ぼくが翻訳をしよう。お母さんの辞書もある、お母さんが使っていたノートもある。
おじいさんに話すと、とても喜んでくれた。そして、それならこれを翻訳してみなさいと、ある本を差し出した。猫の絵が表紙の、シーフィシュ語で書かれた小説本だ。厚さは一センチくらい、開いてみると文字がびっしりだ。もちろん、一文字も読めない。
いきなり難問を出されて顔をしかめるリックに、おじいさんは言った。
「これはお母さんが一番好きだった本の続きだよ。戦争が終わって、やっと出版されたんだ。続きをずっと楽しみにしていたなあ」
目を細める。優しい、だけどどこか寂しそうな面差しが、お母さんを思い起こさせる。
リックは少し考えてからうなずいて、本を受け取った。おじいさんが口角を弓なりに上げると、それはやっぱりおじいさんの笑顔だった。
リックは十三歳になった。
本の翻訳は遅々として進まない。それもそのはず、リックはシーフィシュ語の、文字の読みかた、並べかたから覚えなくてはならなかった。だけどこの本を翻訳しきったらきっとおじいさんが、お母さんが喜んでくれると思うと、少しも苦ではなかった。
そうして家に閉じこもるようになったリックを、初めは心配して、だんだん楽しみにして、村の子どもたちが集まってくるようになった。リックはひたすら文字とにらめっこするだけだけど、家には本がたくさんある、暇つぶしには事欠かない。みんな競って本を読みあさった。どれもこれもお母さんが翻訳した本だ、リックのお母さんはすごい人だったんだねと言われて、リックは誇らしかった。女の子たちにはきれいな絵のお姫さま物語が、男の子たちには冒険譚、特に『惑星調査隊 ノラの物語』が人気を集めた。
シド島調査隊を作ろう、と言い出したのはバーツだった。
バーツはリックと同い年で、村の世話役、マーティンじいさんの孫だ。ワクワクすることが大好きで、夢は冒険者になって、いつかファム群島を一周すること。
しかし、ちょっぴりわんぱくが過ぎる。チャレンジ精神が旺盛なのはいいけれど、練習だと言って、廃材を集めてはいかだを作り、海に浮かべては波に壊される。片手で足りないくらい失敗し、頭に大きなたんこぶを作り、あわや波にさらわれかけもした。あまりの無茶に、ついにお父さんのブルーノおじさんがいかだ禁止令を出した。
それでもバーツはこりない。『ノラの物語』を読んでいっそう決意を強くしたようだ。
「海がダメなら森と山だ。食べられる木の実を集めたり、鳥やイノシシを狩って、川でキャンプをするんだ。それから森にいるマモノ使いをおれたちで捕まえよう、村のみんなに謝らせて、いいやつだったら仲間にするんだ!」
この提案に、男の子たちはおもしろそうだと大賛成した。だけどリックはどうにも気が進まない。
「木の実を集めるのはいいけど、狩りやキャンプ、ましてや森のマモノ使いを捕まえるなんて危ないよ」
「リックがいれば大丈夫さ、だってマモノは大人より強いだろ」
バーツは意にも介さず笑った。複雑な気持ちだ、頼りにされてうれしい反面、心がもやもやして素直に喜べない。盛り上がりに水を差すようで気が引けるけれど、リックは勇気を出して言った。
「ぼく、行かないよ」
「なんだよ、おれたちが危ない目に遭ってもいいって言うのか?」
「違う、違うよ――でもバーツ、きみは冒険者になりたいんだろう? そういう危険には自分で対処できなくちゃいけない。そうだろ?」
「そりゃあそうだけど――いいよ、わかったよ。やっぱりリックは薄情者なんだな」
バーツは憤慨して床に本を叩きつけ、のしのしとリックの家を出て行った。ほかの男の子たちもそれに続く。リックと女の子たちは目を丸くして彼らを見送った。
本を拾い上げ、優しくほこりを払いながらケイシーがなぐさめる。
「気にすることないわ、リック。バーツったら本当、子どもなんだから」
オリーブはうんうんと同意し、ドリーはケラケラと笑った。
「ケイシーのほうが子どもだわ、四つも年下だもの!」
「そういうことじゃないわ、性格が幼稚ってことよ。だって――だって、リックはシド島調査隊には反対なんでしょう? なのに無理やり仲間にして、危険なことはリック任せなんて変よ。それでいやだって言ったら、あの態度よ。幼稚よ、子どもよ」
「それなら言えているわ」
笑いながらドリーもうなずいた。
ケイシーは賢いな、とリックは感心した。どうしていやだと思ったのか自分でもよくわからなかったのに、ケイシーは的確に指摘した。
ひとしきり笑ったあと、ケイシーがリックに向き直って言う。
「でも、リックが断ってよかったわ。だって調査隊に参加したら、翻訳が遅くなっちゃうでしょう。わたしとても楽しみにしているのよ、こんなにかわいい猫ちゃんの絵が表紙なんだもの、きっとかわいいお話だわ!」
薄情者と言われて悲しくなったけど、ニコニコと無邪気なケイシーのおかげで、リックは元気をちょっぴり取り戻せた。
そんないざこざも忘れたある日の昼さがり。勉強に精を出すリックのもとへ、デリックが息を切らせて駆けこんできた。汗をだらだらかいているのに顔は真っ青、マモノが出てきたな、とリックはすぐに悟った。
「助けてよ、リック。森のマモノが現れたんだ!」
「わかったよ。どこへ行けばいい?」
いつもと同じように対応する。しかしデリックは冷静さをまるで失っている、リックの質問なんか聞こえていないみたいだった。
「キャンプをしようとしたんだ、木の実を集めて、野ウサギも捕まえたからね。そうしたらあいつらが突然現れて、あっというまに囲まれたんだ」
「そう、それで、場所は?」
「ジムとアレクシスは木の上に避難してさ、おれは伝令係だからね、バーツがなんとか逃がしてくれたんだ。だけどエルドレッドが危ないんだよ、あいつ、太っちょで木登りができないし、バーツみたいに強くもない、おれみたいに足が速くもない!」
「落ち着いて! マモノはどこに現れたの?」
リックが大きな声で言うと、デリックはじれったそうに、ようやく答えた。
「森さ、森に決まっているだろう!」
それを聞いてリックは驚き、数日前のいざこざを思いだして慌てた。たしかにバーツは川でキャンプをすると言っていた、シド島で川と言えば森のなかを流れるそれしかない。リックはすぐに家を出た。
慌てた理由は、そこが遠いからだ。森も山も、村よりずっと広い。それに野生の動物や勝手に住みついたよその国の大人たち、もちろんマモノだっている。危険だから、子どもたちだけで川より向こうへ行ってはいけないことになっている。それでも村の周りを三周するくらいの距離はある。
「デリックは大人の人を呼んできて、みんながケガをしているといけないから!」
リックはマモノたちといっしょに、必死に走った。森の道はでこぼこしていて走りづらい、何度も転びそうになりながら、十分くらいで川に着いた。
しかしそこにはだれもいなかった。あとから追ってきたデリックが言う。
「もっと奥なんだ、上流のほうさ」
「これより奥は行ってはいけない決まりだよ――デリック、だれか呼んできてくれた?」
「大人には内緒だ! こんなことばれたら、シド島調査隊は解散させられちゃうだろう。だからリックを呼んだんじゃないか!」
憤慨して怒鳴るデリックに、リックはムッとした。あまりにも自分勝手だ、マモノに襲われたのだって自業自得じゃないか、これがバーツの指示ならぼくは彼を軽蔑する。リックはそう思いながら、先導するデリックのあとを追った。
ここから先は足場が悪い。道なんてものはなく、ごつごつした岩や好き好きに伸びた草木が行く手を阻む。それだけじゃない、茂った木の葉は日の光を遮り、まだ昼間なのに暗い。動物の走る足音、トビの鳴き声がおどろおどろしく響く。それに混じって、たしかにだれかの悲鳴が聞こえた。
やがて少し開けた場所に出た。たくさんのマモノに囲まれ、ヤマモモの木とエルドレッドを守りながら戦うバーツがいた。木の上ではジムとアレクシスが震えている。じりじりと迫る森のマモノに、バーツは太い木の枝を振り回して対抗していた。彼の腕や足には擦り傷がいくつもできていて、血がにじんでいる。
「森のマモノたちを追い払って!」
リックがそう叫ぶと、リックのマモノたちがワッ! と飛びかかった。背後から現れた敵に驚いて、森のマモノたちはあっというまに散り散りになった。
ジムとアレクシスとエルドレッド、それからデリックが歓声を上げる。バーツは呆然と立ち尽くした。
「さあ、今のうちに村へ戻ろう」
リックが言うと、デリックはさっさと、ジムとアレクシスはすたこらと、エルドレッドはよろよろと村へ向かって走り出した。だけどバーツだけは、リックをギロリと睨んで動こうとしない。早く、と声を掛けたリックに、バーツは不満げに言った。
「なんでおまえが来たんだ」
「なんでって、きみがそう命令したんじゃないの?」
「おれは、逃げろとだけ言ったんだ。ほかのやつらも順に逃がすつもりだった。おまえが来なくたって、きっとやれた」
顔を耳まで真っ赤にして、バーツが怒る。カッとなって怒鳴りかけたリックだけど、バーツの目から涙がこぼれたのを見て、言葉を飲みこんだ。
ギュッと握りしめた木の枝が震えている。ああ、バーツも怖かったんだな。横に並んでそっと背中を撫でると、バーツの涙はもう止まらなくなって、ぼろぼろと溢れた。
「おれもマモノ使いだったらよかったのに」
悔しそうにバーツが言う。
「そうしたらみんなのことを守れたのに。リックに助けてもらわなくても、ちゃんと戦えたのに」
「バーツは立派にみんなを守ったよ」
「マモノ使いのおまえにはわからないよ。見ろよ、こんなに震えている。おれは臆病なんだ、弱虫なんだ。冒険家にだってなれっこないさ」
どう答えたらいいかわからなくなった。
バーツは一番年上だけど、デリックとエルドレッドも同い年だ。ジムとアレクシスも一才しか違わない。だけどマモノと正面から戦ったのはバーツだけだ。
バーツは弱虫なんかじゃない。だけどリックが言っても、バーツの心にはきっと届かない。ふと、『惑星調査隊 ノラの物語』にあった一文を思い出す。
ノラの先生の言葉だ。
「財は祖先が、才は天が与えるが、それがないからといってすなわち無能ということにはならない。きみは努力できるかね? 諦めず、地道に、ひたむきに、がんばれるかね。それができるなら、夢はきっと叶うとも」
バーツが顔を上げる。バーツもよく読んでいる本だ、気づいたのだろう。リックは続けて、自分の言葉で言う。
「バーツ、きみはとても勇敢だった。マモノ使いじゃないからって、なにを卑屈になることがある? きみは傷だらけじゃないか、でもほかの四人はどこも、一つもケガをしていなかった。きみが守ったからさ」
思わず熱が入る。涙は止まり、目と口をぽかんと開いて、バーツがリックを見つめる。
「だのにきみが弱虫だって? そんなバカな話があるか」
「そうかな」
「そうだよ」
リックが力強くうなずくと、バーツは少しうつむいて、照れくさそうに笑った。
「ひどいことを言ってごめん。助けてくれてありがとう」
「どういたしまして。無事でよかったよ」
木の枝はそこに捨てて、二人は手を繋いで村へ戻った。