天使のいた屋上
十ここまでがんばってきたんだ。
うん、もう少しだけ。
もう少しだけ、がんばってみることにする。
四時の下校は、もちろん遅い。だって終業式だけのはずだったんだから。
しかもパーティーは二時半で終了、片づけを含めても三時には帰れた。なのにまだ残っているのは、カワシロさんと話したかったからだ。帰り道は反対方向だし、屋上ならだれにも邪魔されないだろうと思った。
ビーズを彼女に返した。どこにあったのかと訊かれたので、用務員さんが持っていたと答えた。見つからないはずだ、次の日に用務員さんが階段を掃除しているときに見つけて、取っておいてくれたのだ。取っておいてくれた、といっても、目の前で探してるんだから、声をかけてくれたっていいのに、と思わないでないが。
「名前が彫ってあったんだね、ソレ」
繋げると、『カワシロトモキ』になる。
「‥‥妹がね、図工で作ったって、くれたんだよ。去年の春だったかな」
見ると、もう一本には彼女自身の名前が彫られていた。じっと見つめるその目は、寂しそうだった。
「兄貴もばかだよなあ。あの日、なんでここに来たか、知ってる?」
「‥‥知らない」
そのうちわかると言われたまま、結局わからずじまいでいた。
「おれ、全国中学生写真コンテストでグランプリ獲ってさ。賞状を職員室でもらったんだけど、それを見に来たんだよ」
来るなって言ったのに、と、彼女は笑った。昔から面倒見がよくて妹たちを溺愛していて、とにかくことあるごとに駆けつけるような兄貴だったんだよ、と続けて。
その面倒見のよさが、あだになった。笑ったあとの妙な沈黙には、そんな意味がこめられていたように思う。
「そのとき関わってたヤツが同じクラスでさ。停学が明けてから、顔を合わせなきゃならないのかって考えたら、怖くなったんだ」
抱えたひざに、顔をうずめる。
教室に行けなくなった。二学期が終わり、三学期が始まっても、保健室登校は続いた。学年が変わるころには、授業に出ることがバカらしく思えた。
「高校なんてどこかしら出てればいいし、最悪行けなくてもいいかと思った。中学の勉強なんてどうせ受験のためのものなんだし、じゃあ必要ないかなって。それより、シャッターを切っていたかった」
好きなことをしていたかった。ぼくはうなずいた。
手持ち無沙汰に上靴の先をつまむ、彼女の華奢な手。先ほど、ぼくをみんなの前へ連れて行ってくれたのは、本当にこの手なのだろうか。
「――うん。月命日だったから、というのは、建前だ。‥‥二十日」
キュッと唇を噛んで。
ごめんと言うと、謝るなと返された。写メ事件の起こったあの夜と、同じやり取り。隣に座っているのにカワシロさんが離れていく気がして、つい、ぼくは彼女の手を握った。
カワシロさんは驚いたように顔を上げて、それから少しだけ、口角を上げた。
優しい吐息。
「おまえ、高校どこに行くの?」
訊かれて、少しためらう。
「‥‥栄華学園」
「兄貴と同じところか」
県内屈指の進学校。同時に、サッカーの強豪でもある。
「でも、推薦、断られたんだ」
強豪ならではのスポーツ推薦。それを受けるために、サッカー部がなくなったあとも、外部のサッカークラブで活動した。だめになったのは、‥‥あの事件がためだった。
元サッカー部だから。ほかの学校ならまだ可能性はあったかもしれない。でも、栄華だ。あの事件で亡くなったのは、ほかでもない栄華学園の生徒だ。そう言われては、校長先生も強くは推せなかったのよ。クガちゃんはそう説明した。
ほかの理由ならまだ諦めもついた。実績もなかったし、試合にもまともに出してもらえなかったし、推薦を断られる理由なんてほかにいくらでもあったんだ。幸い、栄華では一般でも入部テストを行っている。だから推薦がだめでも一般で行ければと、勉強だって手を抜かなかった。
ショックだった。暗に、サッカーをやめろ、と言われているように思えた。それであの日、青春グッドバイダイブ、なんて考えたんだ。だけどやめた。
「まだ、サッカーやりたい」
呟くと、カワシロさんがニッとうなずいた。それからスッと立ち上がると、ポケットに手をつっこんで、なにか白い小さなものを差し出した。
太陽の赤い光とかぶって、一瞬、羽かと思った。
「やる」
手に取って、お守りだとわかる。合格祈願――ぼくのために?
「昨日買ってきた。写真部の先輩たちに。おまえも一応、写真部だろ」
なんだ。期待してがっかりした。でも。
「ありがとう」
満足そうに彼女が笑う。
「おれも栄華に行くことにする。先行って待ってろ」
冗談めかして言いながら、足早にフェンスへ駆け寄っていく。ギシギシと軋むフェンス。風でスカートがめくれて‥‥はい、見ません。見てません。なんだよ、ズボン履いてるんじゃん。
てっぺんで、こちらに向き直って座る。
「栄華に行くんなら、授業にちゃんと出ないと」
「三学期から出るよ。これで参考書でも買うかな」
もらった図書カードをひらひらさせて。一、二教科ならまだしも、たった三千円で足りるもんか。そう言うと、じゃあ教えろ、とほおを膨らせた。
「――なにしてんだよ」
二メートル半を見上げる。彼女がますます膨れ面になって、フグになるよとからかうと、顔をまっ赤にさせた。
西に傾いた赤い太陽を背に、左右に伸びる白い雲がきらきら輝く。
撮るなと声を荒げるけれど、‥‥だって。
「天使みたいだよ」
携帯電話を彼女に向ける。電子的なシャッター音に、彼女が恥ずかしそうに笑った。
了