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天使のいた屋上

   四

 とっとと帰ればいいのにと思いつつもまた来てしまう。屋上のフェンスの上に腰かけて、空を覆う雲に手を伸ばす。届くはずもないのに、なにしてるんだろうなあ。
 グラウンドを見下ろす。片隅に建てられた部室長屋からは、これから練習を始めるらしい各部活の部員たちがぞろぞろと出てくる。陸上部はグラウンドの手前側で、野球部は奥。バスケ部とバレー部は体育館で――サッカー部は、ない。
 去年、廃部になったのだ。
「煙となんとかは高いところが好きっていうけど」
 背後から声がして、また驚く。振り返った拍子に右手が滑って、慌てて左手に力をこめたら傷がものすごく痛んだ。
 彼女だ。カワシロさん。
「あ‥‥ビーズ、見つかった?」
 問いかけに、彼女はただ首を横に振る。ついでに体育館シューズを履いているところを見ると、上靴もまだなのだろう。
 フェンスからぼくが降りようとしているところ、彼女が登ってきた。揺れに動けないでいると、カワシロさんはひょいと乗り越えて、また向こう側へと降りていった。
「危ないよ」
「慣れてるって言ったろ」
 そうは言われても、見ているこっちとしては心配でしかたない。どうしようか悩んだけれど、結局ぼくも、向こう側へ降りた。
 カワシロさんはまたも縁ギリギリのところに立って、真下を見ている。緊張。グラウンドから響く野球部の掛け声も、体育館から聞こえるボールの音も、なんにも聞こえなくなるくらい彼女に集中する。
 小首をかしげる彼女。
「あのへんのはずなんだけどなあ」
 呟きながら戻ってくる。ああ、位置を見定めていたのか。気になって、ぼくも恐る恐る下を覗く。とんでもない高さだ。ちらと見ただけで血の気が引いた。でも、なるほど、ちょうど保健室の前。
「携帯は植え込みに落ちてたんだよね?」
 この高さから落ちて無事だったんだし、植え込みを探してたんだし――と思ったら。
「階段の下」
「‥‥よく無事だったね」
 よく見れば、これ。水にも衝撃にも強いというゴツイ機種だ。なるほど、平気で落とせるはずだ。
 いや、そもそも、どうして携帯を落としたのか。始めから落とすつもりだったのだからなおさら疑問だ。そんな心を読まれたのか、ほれ、と携帯電話を渡される。
「ムービーで撮ったんだよ。おもしろいかと思ってさ――早すぎてなんにも見えなかったけど」
 小さな画面に再生されるのは、学校の風景、彼女の足、それから薄い橙の光と緑と白と茶と‥‥ゴオオッという騒音とともに色としか認識できないものが次々と映し出されて、最後にまっ黒になった。
「落ちるってこんな感じかな」
 ぼそりと呟いた言葉に、ドキッとする。
 ここから落ちたら、こんな感じなのだろうか。すべてがほとんど一瞬に通り過ぎて、最後はまっ黒。こんな感じ。こんな感じだとしたら。
 首の後ろがひやりとする。目の奥がちくりとする。ああ――フラッシュバック。
 ダイブを生き延びた猛者を、ぼくは握りしめる。猛者。おまえは今日から『モサ』だ! などとアホな言葉を、心中で携帯に投げかける。苦労するぜ、なんて答えが返ってきたような気がした。
 知らず、ため息が出る。落ちるって、こんな感じか。
「おまえ、ヒマ?」
「え?」
 再びフェンスを登り始めた彼女の問いに、モサとの対話から意識を引き戻される。ジャージなのがすごく惜しい‥‥いや、なんでもないです。
「手伝えよ」
 はい? と訊き直そうとして、ぎろりとにらまれる。ああ、ストラップと上靴ですね。そうですね、ぼくのせいですもんね。見つからない気がするけどなぁ、でも、諦めたら、とは言えない。
 おどおどと彼女のあとを追って、フェンスを乗り越える。おかまいなしに階段へと進む彼女に、そういえば渡されたまんまの携帯電話をどうするべきかと悩む。しばらく操作されなかった携帯は、表示が再生画面からデータフォルダ内ムービーファイルの一覧に変わっている。
 いろいろ撮ってんだな‥‥と。
「なにこれ?」
 思わず呟く。階段に声は大きく反響して、踊り場まで降りていたカワシロさんが驚いたように目を見開いた。そして、慌てて、一段飛ばしで引き返してくる。
「勝手に見るな」
 ‥‥ごめんなさい。が、呆気にとられて言えなかった。強引に奪い取ってポケットにしまう。
 まっ赤だ。カワシロさんの顔が耳までまっ赤だ。
 データフォルダにあったのは、その落下するムービーと、小さな女の子が映ってるもの。妹だろうか、目元がよく似ている。
 そのあと、今日の日付で、またぼくの映ってるファイルがある。
「‥‥楽しそうだったから」
 今日の、サッカーのムービー。イイサキからパスを受け取ったあとくらいから、サエジリに引き倒されるまで、およそ五秒。
 保健室の前の、あの木陰から撮ったのだろうか。
「カメラがあればもっとうまく撮れたんだけど」
 恥ずかしそうにうつむいて口をとがらせる。昨日今日と二日間の付き合いだけど、ずっと無表情だった彼女も、こんな顔するんだな。
 おもしろい。そうだ。
「‥‥なにしてんだよ」
「カワシロさんを撮影しようかと」
 ぼくも携帯を出して、彼女に向かって構える。が。
「やめろ!」
 当然のように断られ、逃げるように彼女は駆け出す。自分は勝手に撮ったくせに!
 しかし反応がおもろくて、カメラを彼女に向けたまま、ぼくは追いかけた。だってさっきまではずっと淡々とした口調だったのに、こんなふうに声を荒げるだなんて。顔はますます赤くなるし、眉尻は下がって女の子らしい柔らかな表情になる。
 階段を降りきるとすぐ昇降口だ。靴を履き替えなくちゃならないけど、彼女はそのまま飛び出していった。薄暗い校舎内とは対照的に、外からは柔らかな、赤みを帯びた光が差し込んで、――シャッターを切る。
 その音にカワシロさんが振り返る。
「今、撮ったろ」
 にらみつけるような目。でも怖くなかった。いや、怖くなかったというか。
 おもしろい。おもしろいんだ。
 怒ったようにこちらへ歩み寄ってきて、ぼくの携帯を奪わんと手を伸ばす彼女。それをかわしながらシャッターを切るぼく。だんだん泣きそうになってくるカワシロさんには悪いけど、おもしろくてしかたない。こんなにころころ表情が変わるだなんて!
 しかしついには捕まって、わきをがっしりと腕で抱えられる。‥‥顔が近いです。唇が近いです。胸が当たっております。
 あの、カワシロさんはブラウスとジャージしか着ていないので、‥‥いや、考えないようにします。ごめんなさい。
 申し訳なくなって、おとなしく携帯を差し出す。と、未練もなくというか突き飛ばすようにぼくは放られた。
「どうせ撮るならもっと見栄えのするヤツにしろよ」
 見栄えのするヤツって。
「カワシロさんこそ」
「おれはどんなヤツでもキレイに撮れるからいいの」
 言いながらぼくの携帯を操作する。データを削除したいらしいが、使い慣れないために手間取っている。困っている顔もまた笑える。普段からもっと、こんなふうにしていたらいいのに。
 隙を見て奪い返す。次はいつ見れるかわからないんだ、消すなんてもったいない。
「早く探そうよ、ビーズ。暗くなったらできないしさ」
 わざと、急かすように。むすっとして膨らせたほおはりんごみたいで、笑ったら無言で尻を蹴られた。
 久しぶりだ。こんなに楽しいのは。
 ずっと続いたらいい。
 そう思っていたのに、楽しみはいつだって唐突に邪魔される。
「ようヤジマ!」
 背後からかけられた、低くて意地の悪い声。振り返るより先に、どうと重たい腕が首にのしかかる。オマケに左手を強く握られて――「イタッ!」
「今日は悪かったなあ、腕は大丈夫か」
 ニヤニヤといやな笑みを浮かべながら、サエジリが言う。おまえが掴んでるせいでリアルタイムに痛いのだが、ヤツの右腕がのどを圧迫して声が出ない、むせる。後方からはさらにタケマキやらコイバやら、いつもの顔ぶれがぞろぞろと続く。元サッカー部のやつら、つまりサエジリ軍団だ。
 ドア口で、カワシロさんが怪訝そうな眼差しでこちらを見ている。
「なんだよ、彼女か? ちょっとつり合わねえんじゃねえのぉヤジマちゃん」
 腕にはどんどん力が加えられていく。苦しいっての。重いっての。逃れようともがくけど、力じゃ敵わない。
「紹介しろよ、なあ、友だちだろう? おれら」
 左腕を強く振られる。なにが友だちだ。
 でもなにも言えない。カワシロさんが見てる。情けない、恥ずかしい、でもなにも言えない。のどを押さえられてる。
 カツカツとカワシロさんが歩み寄ってくる。馴れ馴れしく話しかける無礼な軍団。おれたちヤジマの友だち、なんて言って、順に名乗っていく。
 階段以上に声の響く昇降口。冷たい風が通り抜けていく。
 ――やめてくれよ。
「おまえらみたいなヤツ知りたかねえ」
 ぴしゃりと。瞬間、しんと静まり返る。
 アルトなハスキーボイス。鋭い眼光。光を背にした彼女の姿は黒い人影にしか見えないのに。
 年下の、それも女の子の放つ威圧感ではない。でもそれはたしかに存在して、伸びる濃い影にすら含まれる。
 カワシロさん――怒ってる?
 サエジリさえ押し黙り、つばを飲む音を耳元で聞いた。腕の力が弱まって、ぼくはごく自然に、するりと解かれた。
「来いよ、ハヤト」
「――あ、うん」
 さっと腕を引かれて、小さくうなずく。ちらと振り返ると、サエジリたちは口をぽかんと開けたまま、しばらく立ち尽くしていた。
 早足で校舎を出る。上靴のまま、彼女に手を引かれたまま。そこはもうすぐ保健室の前で、クロ先生が鉢植えに水をやっている横を会釈しながら通り抜けて。
「訊かないけどさ。おれ、あいつらみたいなヤツ、嫌いだ」
「‥‥そりゃあ、ぼくだって」
 でも逆らえない。ぼくは、カワシロさんみたいに強くないから。そんなことは言わないけれど、自分の情けなさはだれよりわかってる。
 まだ晴れきらない空は、一面を覆う雲のあいだから橙色の光線を注ぐだけだ。もしかしたら明日の夜に初雪が降るかもしれないと、今朝のニュースで言っていた。
「そうだ、なあ」
 思いついたように言って、カワシロさんが振り返る。
「番号、教えろよ。アドレスも」


 ことの発端は一年前だ。‥‥思い出したくもない。
 サッカー部が廃部になったのは、そもそもが去年の先輩たちの集団非行だった。集団非行、なんていうと大げさな気もするけど、タバコを部室で吸っていたりだとかいうのはまだかわいいほうで、授業にも出ずに部室にこもったり、バイクを校庭で乗り回したりしていた。もちろん無免許だ、中学生だし。
 それでも教師はなにも言わない。学校内で収まっているあいだは、教師も怖くて言えないんだ。サッカー部は不良のたまり場で、サエジリはうまく取り入っていたけれど、ぼくみたいなのはいいように使われる。
 それだけなら、まだよかったんだ。
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