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天使のいた屋上

   二

 そんな奇妙な小一時間を過ごした翌日、登校すると案の定、靴箱にはたくさんの手紙がつっこまれていた。
 もちろん、ラブレター‥‥なわけはない。わかってる。そもそも手紙と呼べるほど丁寧な紙であるわけがなくって、みんなだってわかってるくせに、わざとからかう。盛り上がると、おまえだれだよっていう通りすがりのヤツまで騒ぎだす。
 手紙は見ないで捨てている。内容はいつも同じだ。よくもまあ毎日こんなもん飽きずに用意するもんだと感心してしまう。そして、毎日のこととわかっていながらも、いちいち胃を痛めているぼく自身にも感心してしまう。
 慣れろよ、もう。
 手紙を一通りどけると、今度はゴミか画びょうとの戦いだ。ときどきゴキブリが入っている。
 なにが楽しいのか、よくわからない。しかし楽しいのだろう、きりがないので咎めることはせず、用意される不愉快な品物をゴミ箱へ捨てる。
 三年三組の教室に行くと、机の上には一輪の花。白いコスモスだ。ああ、また園芸部に怒られる。悪いのはぼくじゃないのに、とため息をついて、窓のわき、日当たりのいい本棚の上へと移動する。それから改めて席に着くと、机のなかから、昨日までの勤めを終えたらしい菊の花が、切り刻まれて散らばっていた。
 なんて暇な受験生集団だろう。それでもやっぱり胃が痛くなるのだから、ぼくも律儀だ。
 開け放たれた窓からは肌に冷たい風が吹き込む。明るい陽光と対比して、窓辺に集まる女子集団の影。まるで切り絵のように見える。
 光景だけは美しい。しかしここに音声が入ると、すべてが台無しになる。よくもまあ、恥ずかしげもなく人の悪口を大声で語り合えるもんだ。
 チャイムが鳴るとすぐに担任教師がやってくる。生徒たちは静かになって、バタバタと席に戻る。この時期に教師の前でだけは、些細でも問題は起こさない。起こせない――起こさせない。そんな空気がここにはあった。
 ショートホームルームが終わって、クガちゃん――クガヤマ先生が退室すると、また教室は騒がしくなる。でも今日はまだ気が楽だ。一、二時間目が体育なので、着替えなくてはいけない。時間がないからなにかされるようなこともない。
 女子生徒は更衣室に向かい、男子生徒は残って教室で着替える。本当ならさっさと着替えてすぐにでも立ち去りたいけれど、念のため。敵陣のなか、置いていかれる私物はかっこうの餌食だ。ギリギリまでここに残る。
 最後に教室を出て、下駄箱に向かう。元は白かった運動靴はもうまっ黒で――いや、使って茶色くなったんじゃなくて、マジックで塗りたくったような黒――そのなかに鼻をかんだあとのティッシュ。荷物を守ったんだからこれくらいはしょうがないかもしれない。
 ホイッスルの音が響いて、グラウンドに駆け出る。体育のナマクラ先生、じゃなくてナカクラ先生の、無駄に元気のいい声が響く。なんて清々しい朝だろうね。ただっ広いグラウンドのどまんなかに生徒を座らせて、先日の大会で好成績を収めたらしい剣道部の自慢を始める。
 先生、今日の体育はサッカーです。ついでに昨日の朝まで降っていた雨のせいでまだ土が湿っているのです。尻が冷たいので早くしてください。
 いっしょに授業を受ける二年生のクラスと、軽く体操をしてからグラウンドを三周。女子生徒はコナガイ先生に引率されて体育館へ移動する。バレーだそうだ。興味はない。
 サッカーのチームは、二クラス混ぜて四班に分ける。まずは友だち同士で生徒が自分たちでチームを組むが、運動力の加減を見て、ナマクラ先生が一人二人を入れ替える。
 困るのはぼくだ。入れてくれるチームがない。これでもサッカーはつい先週までずっとやっていたので、それなりにやれる自負心はあるのだが――幸いは先生もそれを知っているから、一番弱そうな班にぼくを振り分けてくれたのだけど。
 初戦の相手は、よりによってのサエジリ班。
 あちこちに水溜まりを残すグラウンドは、走っているとよく滑る。ぼくの活躍なんてだれも望んじゃいないし、出しゃばるのも趣味じゃないので遠巻きに眺めているが、ずっと動かないでいると先生が野次を飛ばすので、それなりにやっているフリをする。あくまでやってるフリのぼくは、なるべくぬかるみのない場所を選んで動いた。
 自班、カナエのキックオフ。すぐにタケマキに奪われる。つっこまれてビビッて、足を引くからだ。イイサキが追いかけるけれど、コイバの眼光に威嚇されて逃げ出してきた。ボールも持ってないのになにを怯えているんだ。
 見ていていらいらする。が、なにも言うまい。
 シュートを放つのはもちろんサエジリだ。仲間からボールを奪うのはどうかと思うが、それがやつらの決まりなのだ。言わずもがな、キーパーのシダに止められるはずもなく、ホイッスルが鳴ってまたカナエのキックオフから始まるけれど、流れは同じ。
 ビデオの同じシーンを繰り返し見ているような感覚。自然と意識は周囲の風景に向けられる。待機中の二班は笑い騒いで、校舎では音楽室から歌声が響くほか、ひどく静かだ。保健室の窓からはクロ先生が顔を出し、その手前の植え込みにいるだれかと話している。すぐわきの校舎とグラウンドを繋ぐ石の階段には、薄い緑のつなぎにベージュの帽子。用務員さんが掃除している。落ち葉がひどいらしい。
 屋上にはだれもいない。カラスの飛び去る影が人のように見えて、一瞬頭の奥がひやりとした。
 と、またホイッスルが鳴る。自班にゴールされた。敵陣に歓声が上がる。気がつけば三点目らしい。しかたないか、自班はクラスでもおとなしい、文化部系のやつらばっかりだ。いつも教室の片隅で小さくなっているような。
 そんなチームから点を取るのがそんなに楽しいのだろうか。仮にも経験者のくせに。
 やれやれ、と一つため息をついたら‥‥ば。
「ヤジマ、キックオフおまえやれ」
 手招きされ、審判を努めるナマクラ先生に指名される。二年生は無反応だが、同じクラスのやつらはやや驚いたように目を見開いた。敵班は嘲笑の笑みを浮かべる。
「おまえ、サッカー部だったろう」
「先生、コイツ、ボール磨きしかやってないんだぜ」
 先生がぼくにかけた言葉を、サエジリが遮ってちゃかす。そんなことはないぞとたしなめる先生を無視して、ほかのやつらも笑いだす。自班の冴えない軍団は、完全に萎縮してしまっている。
 バカにするな。
 やれと言われればやるしかない。自班が心配そうに見つめるなか、同じクラスのカシを隣まで呼ぶ。ぼくの蹴りだすボールを受け取ってもらうためだ。カシは不安そうにおろおろしているが、かまいやしない。
 敵班はのん気に二ヤついてやがる。
 ――見てろ。
 左足で蹴りだす。それを合図に前進したカシの右足にボールが当たって、――いや、返してくれよ。ボールは勢いよく、単独、敵陣へつっこんでいく。
 いやしかし。すぐさま追う。サエジリと二年生が向かってきた‥‥が。
「触んな!」
 得意の威嚇。ぼくと、なぜか仲間の二年生にも。可哀想に、まさか味方からそんなふうに怒鳴られるとは思っていなかったのだろう。しかもすぐそばにいたせいで、サエジリの振った腕がのど元に当たってしまった。よろめき、苦しそうに咳き込む。
 それを気にも留めず、サエジリはなおも向かってくる。
 やるもんか。
 先にボールに触れたのはサエジリだった。満足そうな笑みが見える。もうボールを確保したかのような、勝ち誇った顔だ。
 でも強すぎだ。
 カシが飛ばしすぎたボールを、サエジリが持って帰ってきてくれた。ヤツの手前一メートルに放られたボールはぼくにはフリー同然で、右から左へすばやく奪う。
 予想だにしていなかったのだろう、敵班は口をあんぐりと開けてぼくを見ている。集まれど動かないやつらのあいだを抜けるのはもちろん簡単だ。
「上がれ!」
 叫びながら振り返ると、自班のやつらはもう走り出していた。のろかったけれど。唯一ぼくより先を走っていたイイサキにパスを出すと、彼はちゃんと受け取ってくれた。
 しかし背後からは、プライドが傷ついたか、憤怒の表情でサエジリが追いついていた。敵班もどんどん下がってくる。怯えるイイサキ。サエジリに追い抜かれた瞬間、ぼくが前方にいることに気づいて、勢いのあるパスを出す。
 それを追いかけてサエジリもこっちに向かってくる。ボールのほうがずっと速い。受け取れないわけがない。
 進む先、敵はディフェンダーが二人とゴールキーパー。すべて二年生だ。今まで暇そうにしていたキーパーは、目が覚めたら戦場でしたくらいの勢いでうろたえている。‥‥まんまだ。
 サエジリがもう背後まで来ているのがわかる。でも追いつけない。追いつくころには、もうシュートを決めている。
 ゴールまで目測十メートル。
 サエジリの気配を背中間近に感じる。
 右足を引く。キーパーが構える。
 襟元が後ろに引かれる。バランスを崩す。
 慌てて右足を戻すも、ぬかるみに取られる。
 思い切り横に振られる。
 振り返ろうとすると見下ろすサエジリの目が見えた。ヤツはすぐにボールに飛びついた。
「ふざけんな、ヤジマのクセに」
 ‥‥ジャイアンじゃないんだから。
 自分でも恐ろしいくらい冷静なツッコミを脳内でかますうちに、視界が茶色く染まる。痛い。冷たい。
 ホイッスルが鳴る。
 ファールだ。
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