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天使のいた屋上

   八

 ――大人だけではないか。
 雲はなかった。太陽の暖かい陽射しが、なにものにも遮られることなく、ぼくの全身を照らす。風は冷たかったけれど、気にはならなかった。
 いい天気だった。恨めしいくらい。
 もしかしたらを期待していたのに、屋上にはだれもいなかった。ぼくはフェンスによじ登り、てっぺんに腰かけたままグラウンドを眺めていた。
 五時間目の授業。どこかのクラスがサッカーをしている。ナマクラ先生が吹くホイッスルの音がよく響いた。いくつか知ってる顔があって、二年生のクラスだとわかった。
 生まれて初めて、授業をサボった。五、六時間目は二時間続きで美術。クガちゃんの授業だから大丈夫だろう、なんて安易に考える。
 マツナカ先生の発言を、クガちゃんは気にしないようにと言った。クガちゃんに謝られた。クガちゃんはなにも悪くないのに、心苦しかった。こうやって高いところで冷静に考えれば、マツナカ先生も感情的になっただけで、悪意はなかったんだろうと思える。
 みんなそう思ってるんだ。
 アレは事故だった。カワシロ先輩が屋上から落下したのは、隅に置かれた自転車が強い風で倒れそうになって、それを支えようとして支えきれなかったためだと、当時の三年生たちは説明した。下で見ていた陸上部員たちも同じ証言をしている。
 それでも原因を作ったのはサッカー部だった。もとより成果のない部活だ、廃部になるのは致しかたなかった。
 あくまで事故だったため刑事処罰は免れたものの、屋上にいた生徒は残らず停学処分になった。サエジリたちもだ。サッカー部の二年生で停学にならなかったのはぼくだけだった。
 ぼくはなにもしていないのだから当然だ。当然なのだけど、サッカー部だ。二週間、後ろ指をさされ続けた。
 あの居心地の悪さを、どうして今、また繰り返しているのだろう。
 屋上は静かすぎた。天国行き方面へ降りてしゃがみこみ、そっと下を覗く。保健室前の植え込みが見えた。カワシロさんが見せてくれた、落下するムービーを思い出す。掲示板に投稿された、悲惨な写真を思い出す。
 よくもあんな写真を撮れたもんだ。だれが、なにを思ってあんな写真を撮ったのだろう。人が一人死んだというのに、間違いなく助からないだろう事態に、どうしてそんな余裕があったのだろう。
 そんなヤツらのためになぜ先輩は死んでいったのだろう。なぜカワシロさんまで傷つけなくちゃならないのだろう。なぜぼくは苦しんでいるのだろう。なぜ邪魔されなくちゃいけないのだろう。
 でも犯人を突き止めるのは恐い。つくづく、自分を情けなく思う。
 体育座りをして、組んだ腕に顔を押しつける。ずっと堪えていたのに涙が出てきて、だれもいなくてよかったと思った。

 ホイッスルが鳴って、顔を上げる。

 今まで試合をしていた二班が中央に集まり、向かい合って並んで互いに礼をした。次にナマクラ先生の声が響き、なんと言ったのかはっきりは聞こえなかったけれど、どうやら次の二班の試合が始まるらしい。
 そのなかに、サッカー部だったマナツルの姿を見つけた。あの事件さえなければ、アイツはいい選手になったはずだ。リーダーシップも取れる。彼がいたから、後輩のほとんどがちゃんと練習に参加していた。
 ぼんやりと目で追う。高校になったらきっと、存分にサッカーができる。アイツは活躍できる。高校でならきっと、きっともう邪魔されない。
 高校なら。
 マナツルのアシストからシュートが決まる。歓声が上がる。再びのキックオフのあとは、コイツも元サッカー部のヨサワがチームを引っ張る。
 力の釣り合いがよく取れた二班はいい試合を見せていた。
 ヨサワのシュート。キーパーが止める。キーパーが蹴ったボールはよく伸びて、すばやく上がっていたマナツルが受け取る。ヨサワチームのディフェンダーが対抗するけれど、マナツルはうまくかわしていく。そのうちにヨサワが追いついて、競り合いになる。
 ヨサワが奪った。直後、マナツルチームのディフェンダーに奪い返される。すぐさまのロングパス――いいパスだ、サエジリよりずっとうまい。ボールは再びマナツルに渡る。
 マナツルチームの優勢。ミッドフィルダーもどんどん上がってくる。足と足のあいだを行ったり来たりするボールを追うのは大変で、気づくとギュッと拳を握っていた。汗をかいていて、ドキドキして、いつのまにか口角が上がっている。
 ――楽しそうだったから。
 恥ずかしそうに顔を赤らめたカワシロさんを思い出した。彼女の携帯に納められていた、ぼくのムービー。楽しそうだったから。楽しそうだったから――うん。
 うん。楽しかったんだ、実のところ。
 部活を続けていたのだってそうだ。成果のない部活だった。でもやめたくなかった。廃部になってからも、外部のサッカークラブに通った。そこも強くはなかったし、遠かったし、先週辞めたけど。
 相手がだれだろうと、サッカーは楽しい。楽しかった。
「‥‥そうだ」
 大きく呟いて、ぼくは立ち上がった。勢いに任せてフェンスを乗り越える。授業中だのに迷惑にも、足音を響かせながら階段を駆け下りて靴を履き替えて、外へ出る。
 保健室前の植え込み。
「珍しいな、ヤジマ、サボりか」
 背後から声がして振り返ると、クロ先生だった。けど口調は決して咎めるようなものじゃなくて、窓枠に頬杖をつき、優しくほほ笑んでいる。内緒ですよ、と言うと、先生は黙ってうなずいた。いや、どうせばれてるけどね。なんだかホッとする。
 植え込みのなかでしゃがみこみ、足元を注視する。さんざん探した場所だ、見つかる気はしなかったけど、見つけ出してやりたかった。
 残り一つのウッドビーズ。
「先生、ビーズってどこまで飛ぶと思います?」
 黙ってるのも寂しくて、問いを投げかける。先生はしばらく考えたのち、携帯と同じくらいは飛ぶんじゃないかと言った。やはりそのくらいだろうか。上靴もずいぶん離れたところにあったし、探してみる価値はありそうだ。
 と、チャイムが鳴る。五時間目が終わった。校舎からは一斉にいすを引く音が響き、グラウンドでもホイッスルが鳴らされた。どうやら引き続き体育らしいこのクラスは、そのままグラウンドの隅に集まって、ジャージを着こんでくつろぎ始めた。
 こっちに来ないといいけれど。サボっている身なので、見つかると気まずい。後輩たちが昨日の騒ぎを知っているかもしれないと思えばなおさらだ。幸いにもそれは叶った。ただし、ナマクラ先生だけは校舎に向かってきていた。休憩だろうか。ぼくは慌てて木陰に隠れた。
 が、無駄だった。
「あれ、ヤジマ、サボりか」
 なんでこっちに来るんですか先生。
 ナマクラ先生は予想に反して、保健室の前に来た。クロ先生に用事があったらしい。仲がいいな、この二人。隠れたぶん、なおさら気まずくなってしまった。
 クロ先生に手招きされて観念する。肩をすぼめていると、ナマクラ先生は笑いながら背中をばしばしと叩いた。
「黙っててやるから!」
 いや、ばれてますから! でも、笑ってもらうと気が楽になった。なんでだろう。さっきまであんなに鬱屈していたというのに、ぐちゃぐちゃだった気持ちがほんのわずか、緩んだ。
「あんまりクガヤマ先生に心配かけるなよ。相談だったらおれも乗るからな」
 髪をがしがしと乱暴にかかれて、少し目が回った。首を振ってわざと口をとがらせてみせるとクロ先生も笑って、やっぱりありがたかった。
「それで、今日はどうです?」
 ひとしきり笑ったあと、さて、とナマクラ先生が問うた。どう、って? なにかあったのだろうか、クロ先生が小さくため息をつき、眉間にしわを寄せる。
「ここには来てないんですよ。連絡は取れるのですが」
「――そうですか」
 難しそうにナマクラ先生がうなずく。しかたないか、と呟いたのを、ぼくは聞いた。それからまたぼくの肩を強く叩いて、苦笑気味に言う。
「ヤジマ、カワシロに、授業に出てくるように言ってくれよ」
「‥‥カワシロさん?」
「彼女、ナカクラ先生のクラスの子なんだよ」
 へえ。クロ先生の補足にうなずく。そうだったのか。でも、授業に出てくるように、って?
 よくわからないうちにあっというまに十分は過ぎて、始業のチャイムにナマクラ先生はグラウンドへと呼び戻されていく。おまえも元気出せよ、と言い残して。
 再び吹き鳴らされるホイッスルの音に、生徒たちはだるそうに整列する。試合をする二班はジャージを脱ぎ、肩をすぼめて寒そうに腕をさすっている。グラウンドの隅に放られた、緑の塊。
 保健室の窓の横に背を預ける。日当たりがよくて、うっかりすると眠ってしまいそうに暖かい。
「カワシロさん、授業に出てないんですか」
 カワシロさんに二度目に会ったのは、まさにこの場所だった。授業中。サッカーをしているぼくを、携帯電話で撮影していた。
 困ったように眉をひそめて、クロ先生がうなずく。――じゃあ。
「今日は来てないって、彼女のこと?」
「うん‥‥まあ、今までも何度かあったんだけどね」
 しかたないよ。言いながら、先生は薄暗い保健室の奥へと引っ込んだ。
 しかたない。そうは、思えなかった。
 昨日の今日だ。
「先生、先生は昨日のこと、知ってるんですか」
 窓から覗きこんで叫ぶ。クロ先生は驚いたように振り返って、それから複雑に顔を歪めた。知っていたのか。そうだよな。クガちゃんもマツナカ先生も知ってるんだ。きっと朝の職員室では大騒ぎだったに違いない。なのにクロ先生もナマクラ先生もなにも言わなかったのだから、ありがたくも思うけど、申し訳なさも抱く。
 どうしたら報えるだろう。
「ナカクラ先生じゃないけど、カワシロを励ましてやってくれな」
 低くて優しい、クロ先生の声が響く。
「上靴、見つけてやったんだろ? 彼女、昨日、うれしそうに教えてくれたんだよ」
「‥‥ホントに?」
 もちろんと、クロ先生がうなずく。彼女の笑顔を思い出す。
 ――どうしたら。
 ほかになにも思いつかなかった。
 階段を探そう。向こうの花壇のなかかもしれない。それしか、ぼくにはできない。
 ホイッスルの音が響く。一点追加、キックオフ。どちらのチームにも知ってる顔はいない。マナツルとヨサワがグラウンドの向こうで、立ち並んでボールを目で追っている。ヨサワがぼくに気づいたらしく、手を振られた。振り返すとマナツルも気づいてぺこりと頭を下げた。
 部室長屋から用務員さんが歩いてきた。左手で大きなゴミ袋を二つ、右手でほうきとちりとりを持っている。挨拶すると返してくれたけど、ふしぎそうな顔をしていた。
「花壇を荒らすんじゃないぞ」
 今はツツジの木しかありません。が、一応うなずいておく。用務員さんといえばの定番スタイル、薄い緑のつなぎにベージュの帽子は、このあいだ見たかっこうと同じだ。
 このあいだ――あ。
 もしかしたら。
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