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天使のいた屋上

   七

 十一月二十日だった。はっきり覚えている。時間は午後五時五十分。この時期は日落ちが早くなってくるので、部活動は六時までと定められている。サッカー部も練習を終え、ぼくは一年生とともに、片づけをしていた。
 サエジリたちはいなかった。三十分前までは練習していたが、顧問だったサキゾノ先生が職員会議へ消えたのを機に、どこかへ行ってしまった。しばらくして屋上からばか笑いが聞こえてきたので、先輩たちと騒いでいるのだと知った。
 そのころ、屋上にはまだフェンスがなかった。どこから持ち込んだのか、自転車でチキンレースを楽しむ姿がはっきりと見えた。陸上部の人たちや後輩たちが心配そうに眺めていた。でも、先生たちはだれも気づかなかった。
 ぼくはどうでもよかった。だから放っておいた。実力もないくせにキャプテンを張っておいて練習しないんだ、いっそそのまま落ちてしまえと思っていた。心のなかでだけなら、サエジリにも悪態をつけた。
 雲が足早に流れていった。雨上がり独特の、湿った風が吹いていた。
「ああ、もう練習は終わったのか」
 道具を片づけに部室へ戻ったとき、そう声をかけられた。紺のジャケット。灰色のチェックのズボン。白いシャツに赤いネクタイ、肩から斜めにかけるスポーツバッグ。
 ジャケットの襟元に、ピン。県内でも屈指の進学校、栄華学園高校の制服だ。それに気づいて、ようやく顔を確認する。
 何度か会ったことのある人だった。カワシロトモキ。二年前に卒業した、サッカー部の先輩だった。
「お‥‥お疲れさまです」
「お疲れ」
 短い黒い髪、逆三角形のシャープな輪郭、整えられた眉。細い目、口角を上げた薄い唇と小さな鼻。女性的な、端整な顔立ち。ぼくよりも頭一つと半分も背が高い。
 耳が熱くなったのを感じた。憧れの人だった。小学生のころ、他チームでプレイする彼を見て、ぼくはサッカーを始めた。ぼくは三年生で、彼は六年生だった。あいにく試合をしたこともなく、中学に上がると同時に彼は卒業してしまったから、いっしょにプレイをしたこともなかったのだけれど。
 緊張した。
「まだみんな、いる?」
 低くて優しい声だった。問いかけられると同時に一年生たちも戻ってきて、先輩はにこりと笑った。それから、一年生たちに自己紹介させた。一年生のなかにもサエジリと行動を共にするヤツはいたけれど、少なくともそのときに残っていた部員はまじめだった。
「今日はどうされたんですか?」
 質問すると、先輩はにこっとほおを赤くした。なにかいいことでもあったのだろうか、けどもったいぶるように、「そのうちわかるよ」と答えた。
 そのうち、は来なかったように思う。
「二年生はヤジマだけ?」
「‥‥はい、今日は」
 情けなくなった。しかも、ぼくはスタメンですらない。補欠なのだ。補欠しか練習にしない二年生なんて。先輩がため息をついて、もういたたまれなくなった。
 せめて屋上から。先輩の見える場所から、あいつらがいなければよかった。せめて声をひそめて、ばか騒ぎなんてしていなければよかった。
「やっはーっ!」
 叫び声とともに、上空から落ちてきたサッカーボール。練習を引き上げてだれもいなくなったグラウンドのどまんなかで跳ねて、そのままグラウンドを囲む木立へ消えた。
 しんとなった。
 先輩の視線が屋上に向けられる。今までの朗らかな笑みはもうなかった。鋭くて、眉間に怒りがこめられていた。
「あれは――あ?」
 独り言のようだった。今一度屋上を見やれば、すでに引退した三年生が一列に並び、次々とサッカーボールを蹴り続けていた。雨のようにボールが降る。
 三年生とは、先輩は面識がある。カワシロ先輩が三年のときに、今の三年生は一年だった。今屋上で騒いでいるのがサッカー部だということは、先輩にはわかってしまった。
 足早に校舎へ向かう先輩。止めようとして、振り切られる。
「おまえがいなくなったら、一年生たちが困るだろ」
 言いながら無理やりにほほ笑んで。でも不安だった。だから先輩が校舎に消えたあと、会議中の職員室に割り込んで、屋上で起きていることを告げた。冷ややかな視線がぼくに向けられた。
「なにもこんな、おめでたいときに」
 サキゾノ先生が深いため息をついた。それから教頭先生が、放っておきなさいと言った。だれか頼れる先生はいないかと思って振り返ると遅れてきたらしいクロ先生とナマクラ先生がいて、事情を説明して。それでようやく、先生は動いてくれた。
 でも遅かった。
 風が強く吹いて、窓がガタガタと震えて、だから隙間風の口笛かと思ったんだ。
 ボールだけじゃ飽き足らず、自転車を落としでもしたかと思ったんだ。
 あのとき、職員室ではなにをしていたっけ? ――女子生徒が一人、賞状筒を抱えて立ち並ぶ先生たちの中心にいたことだけは覚えてる。
 なんでそんなことより、こっちを優先してくれなかったんだろう。
 いいや。
 なんでぼくは、危ないとわかっていたのに先輩を止めなかったのだろう。無理やりにでも引き止めなかったのだろう。


 悪夢じゃない。夢は見ていないのだから。
 それでも夜は明けるのだから、時間の流れは無慈悲だとつくづく思う。


 眠れずに登校すると、いつものような手紙やら花やらは、今日はなかった。代わりにひそひそ声が大きくなる。同学年ばかりでなく、一、二年生まで、ぼくを見て後ろ指をさす。
 しかたない。ヤジマハヤト。それは紛れもなく、ぼくの名前なのだから。
 教室ではカシたちが心配そうに顔を歪めて、ぼくの席で待っていた。おはよう、と挨拶したのに、返事は「カワシロちゃんはなんだって?」だった。
「気にするな、って」
 ため息しか出ない。
「あれ、最初は写メコンの板に投稿されたんだよ」
 呟くような声でイイサキが言った。沈痛な面持ちで三人がうなずく。すぐに消されたが同じ内容の投稿が続き、そのために予定よりも早く投稿板は消されたらしい。掲示板への書き込みが始まったのはそのあととのことだ。
 今は掲示板も消されている。生徒会長のブログにもコメントの受付を停止すると書いてあった。
「ヤジマくんじゃ、ないんだよね」
「当たりまえだろ」
 シダが恐る恐る言った言葉に、つい声を荒げる。後悔する。これまで、さして仲がよかったわけでもないんだ。いくら無実を訴えたところで、何人が本心から信じてくれるだろう。
 学校中が、ぼくを疑いの目で見る。
 いや、違う。考えてみればわかることだけど、こんな悪質ないたずらをするに本名を名乗るヤツなんていない。みんながぼくに向けるのは、疑いではなく好奇の目だ。悪意に名前を使われる、ミジメな存在の確認。ストレスのはけ口を求める獣の中心に、堂々提示されたエモノ。
 真偽など関係ない。ぼくがより大勢にいじめられるための言いわけが、そこにできた。
「よおヤジマ、見たぜ、おまえの『作品』」
 いつのまにかサエジリ軍団がカシたちを囲み、がっしりと肩を捕らえていた。ニヤニヤといやな笑みを浮かべ、ぼくを見下している。
 ぼくはなにも返さなかった。
 サエジリたちがカシたちを、肩を掴んだまま教室の後方へ連れて行く。いつもサエジリたちが集まっているスペースだ。もちろんカシたちは逆らえない。恐怖に目を泳がせながら、おどおどと従う。ぼくはただ見送った。なにもしないほうがいいと思った。
 そのうちにチャイムが鳴り、ショートホームルームが始まる。五分も経たずに終わると、クガちゃんに呼ばれて、昼休みに生徒指導室へ行くように指示された。クガちゃんは今にも泣きそうな、さっきのカシたちと同じような顔をしていた。

 昼休みに指導室へ行くと、学年主任のマツナカ先生とクガちゃん、それから生徒会役員が数名、集まっていた。入室した瞬間に、刺さるほど鋭い視線がぼくに集中する。クガちゃんと生徒会長はうつむいていた。勧められるままいすにかけ、ぼくもうつむいた。裁判にかけられる犯罪者にでもなった気分だった。
 薄暗かったけれど、電気はついていなかった。きちんと整理された本棚とそのわきに乱雑に置かれた模造紙が、室内を無機質に見せた。寒いというより、冷たかった。
 ぼくではありません。
 訴えを証明するために、携帯電話を提示する。しかしそれは必要なかった。会長の口から、書き込みはすべてパソコンから行われたらしいと説明された。アクセス数が急激に伸びたのも、某大型掲示板サイトに、パスワードとともにサイトアドレスが晒されたことが原因だったらしい。
 ぼくの家にパソコンはありません。そもそもその時間、ぼくは塾で授業を受けていました。
 マツナカ先生が不服そうに顔をしかめる。ヤジマくんはまじめな生徒です、とクガちゃんがなだめる。生徒会役員たちもなにか言いたそうにしているけれど、今にも爆発しそうなマツナカ先生の形相に怯えてか、はたまた一応は先輩に当たるぼくに遠慮してか、ただ口をつぐんでいる。
 先生たちのやり取りが続く。みるみる赤くなっていくマツナカ先生の顔色と対照的に、クガちゃんは青ざめていく。胃がキュッと痛くなる。ほとんど残したというのに、食べたばかりの給食がのどまで戻ってくる。
 黙ってそこに座っているしかなかった。マツナカ先生の憤怒の罵声が、ナイフのようにぼくの心臓を削り取っていく。
「だってクガヤマ先生、わたしだって聞いてます」
 ――すべての声が、聞こえなくなってしまえばいい。
「ヤジマもサッカー部員だったのでしょう」


 なにも知らないくせに、なんで大人はいつも一括りにするんだ。
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