HOMENOVEL>天使のいた屋上

天使のいた屋上

   一

 ピロチカルン、という短くもよく響く電子音が背後から聞こえたので、ぼくは慌てて振り返った。
 雨上がりの夕方。見渡す限りのどこよりも空に近い場所。見下ろす天井に、人影。
 携帯電話を構えている。
「なにし‥‥なにしてるんですか!」
 いつもなら見も知らぬ人相手にこんなこと言う度胸なんかないのに、そのときはやっぱり、興奮していたんだと思う。羞恥心なんて消えていたんだと思う。そんなことよりもっと、いら立っていたし情けなかったしミジメだったし。
 これ以上の恥なんて、もうないと思っていたし――だから師走を半分も過ぎながらワイシャツ一枚でいたというのに、寒いとは感じなかったんだ。
 相手は答えなかった。なおも響く電子音。人を小バカにしたような、明るくて軽快なメロディ。
 バカにしやがって。
「そこに登るのは禁止されてるんだぞ‥‥禁止されてるんですよ」
 ぎろりとにらまれて、敬語に言い直す。情けなさに輪をかける。条件反射だ、悪くもないのに謝ってしまうような。
 そこ、というのは屋上出入り口の上。教室六部屋ぶんの広さの平地に、小屋のように飛び出る長方体に、貯水タンクが重なっている。その、タンクの手前に、緑のジャージを着て立っている。
 そもそも屋上への出入り自体、教師の許可がない限りは控えるべきと校則に定められている。教師の姿は見当たらない。いや、いたならば、彼女がソコで仁王立ちしている時点で咎められているはずなのだけど。
 そう、彼女‥‥彼、「女ぁ!?」
「てめえのいるソコも禁止されてんだろがよ」
 だいぶアルトなハスキーボイスで彼女が言い放つ。またもピロチカルンが切られて、それからゆっくり、どうやらぼくはフレームアウトした。
 肩までの黒いストレートヘア。逆三角形のシャープな輪郭に、きりりと整えられた眉。目は細いけれどまつげが長くって、ここからでもはっきりと見える。桃色の薄い唇と小さな鼻は感情もなしに下を向き、すらりとした長身にまとうジャージの色のセンスは、致し方ない、学校指定だ。
 携帯の向こうから現れたのは、女の子だった。
「女で悪いか」
 淡々とした口調。声色だけで判断すれば決して怒っているわけでも泣きそうなわけでもないのに、漂うのは静かな威圧感。言葉を発する術も忘れて、ただ首を横に振った。
 だってまさか、女の子が一人でこんなところにいるだなんて思わないじゃないか。
 たしかにぼくのいる場所も、登ることを禁止されている。つまり屋上の広さを囲む、高さ二メートル半のまだ新しいフェンスだ。理由は簡単、危ないから。
 ついでに彼女のいる場所が禁止されている理由は、みんなが登りたがるから。十数年前に不良同士の場所取り合戦の末に十余人がけがを負って以来の規制だと聞く。
 煙となんとかは高いところが好き、ってね。いや、彼女がどうとかじゃなくて‥‥うん。
「降りねえのかよ、人には注意したくせに」
 女性らしからぬ粗野な口調で彼女が言った。そのくせ視線は携帯に向けられたままだ。天使の輪を作る髪が風に乱されて、彼女は迷惑そうに目を細める。強い風だ、もし彼女がスカートを履いていたなら、とんでもないサービスショットになったろう。
 いや、断じて見たいわけではない。‥‥見たいわけではない! なんでジャージなんだ。
 そう思っているうちに、彼女が屋根の上から降りてきた。なんて軽い身のこなし。すっかり履き潰されて元は何色だったのか、もはやわからない上靴が、歩くたびにぺちぺちと音を立てる。ぼくに、歩み寄ってくる。
 ええと‥‥さっき、なんて言われたんだっけ?
 と、ぼくの足元まで来て、彼女が急にこちらを見上げた。眉と眉のあいだに怪訝そうな縦じわを一本加えて。
「降りねえの? それともソッチ側に行きたいわけ?」
 あごでくいっと、外を示す。つまり――天国行き方面。
 つばを飲む。うなずこうとして。
「――う」
「じゃあさ、これ、撮ってきてくれる?」
「はい?」
 これ、と言って、彼女はぼくに携帯を差し出した。丸いウッドビーズのストラップが二本つけられた、ピンク色の、いかにも女の子な携帯電話。
 画面は撮影モードになっている。
 応えようと手を伸ばしかけて、いや、と思いとどまる。いや、待て待て待て待て。これってどれですか。撮ってきてってなんのおつかいですか。
「あの」
「写メコンさあ、ぜったいグランプリ獲れよってあおられてんだよ」
 薄めの唇をへの字に曲げると、せっかくシャープなあごのラインまで崩れる。でも彼女はおかまいなしで、あまりの唐突かつ強引さに、ぼくはなにから質問すればいいのかもわからなくなった。
 えーと‥‥。
「写メコン?」
「クリスマスパーティーの企画だよ。去年もやってたろう、生徒会が主催で。写メコンは今年からだけど、グランプリには図書カード三千円ぶん」
「へえ‥‥そう‥‥なんですか」
 ぼくがここを乗り越えてどうするつもりなのか、ってのは、彼女にとっては問題ではないのだろうか。
「別に本なんか読まねえんだけどさ、写真部部員としては結果を残さねえと、面目保てねえってわけ」
「そう‥‥なんですか、え、じゃあ、」
 フェンスの頂上に足を引っ掛けたまま、もうそこから動けなかった。ただ、ほら、と突き出される彼女の携帯電話を見つめて、うっかり口走る。
「ぼくが撮ったらだめなんじゃないですか」
 手のひらに汗がにじむ。ああ、言ってしまってから、ものすごい後悔が湧き上がってきた!
 彼女の鋭い眼光がぼくを捕らえる。これで彼女がなにか言おうものなら、手が滑って本当に落っこちてしまいそうだ。それはいやだ。青春グッドバイダイブにも心の準備ってものが必要だ。
 腕ががくがく震える。心臓が冷たく高鳴る。体中を巡るものが温かい血ではないような、冷たいミミズにでも替えられてしまったかのような気持ち悪さ。
 そんな状態のぼくの足の下すぐのところに、なにを思ったんだろう、彼女が手をかける。そして、小さく「よっ」と勢いをつけて‥‥ええ? なんで登ってくるの!?
 緑の金網がギシギシと軋む。バランスが不安定になって、とっさに身を屈めてフェンスにしがみつく。彼女はおかまいなし、どんどん登ってきて、ついにはぼくと同じようにてっぺんに足をかけた。
「そりゃそうだな」
 さっき彼女がいた出入り口の上より、もっと高いフェンスの上。ジャージがパタパタと風にはためく。また携帯をいじって、準備ができたのか、今度は向こう側に降りていって‥‥いやいやいやいや、危ないって! 危険だって!
 慌ててぼくも降りる。二人同時に動くとフェンスの軋みは半端じゃなくって、壊れでもしたらきっと二人とも助からないな、なんて考える。だめだ、手足の末端が痺れている。脳みそさえ正常でない。汗びっしょりだ。手のひらも足の裏も。
 必死にフェンスにしがみつく。よりによっての強風。よく支えも命綱もなしに立っていられるよ、こんな、一メートルもない足場で。こんな高さで。
 こんな高さで。なにを撮るっていうんですか。
 不安に襲われつつも彼女の背中を見守る。足場の端も端、ふちギリギリに仁王立ちして、彼女は携帯を構える。もう気が気じゃない。
 風がごうごうとうなる。
 気に入る風景がないのか、校庭を一回りしてから、カメラを自分に向ける。それから、右足を大きく前に伸ばして――そこにはもう足場ないですから!
「待った待った待った!」
 思わず叫んだら、声が思いっきりひっくり返った。いや、そんなの気にしてる場合じゃない。死んじゃう。ここから落ちたらこの人死んじゃうよ!
 それはだめだ。もう、人の落ちるところなんか見たくない。
 両手で彼女を抱きしめる。力任せに引き寄せる。片足で立っていた彼女は抵抗することもできず、二人して尻餅をついた。
 彼女の伸ばした右足の先にあったはずの上靴がない。握っていた携帯電話もない。でも彼女自身は、ぼくの腕のなかにいる。
 肩で大きく息をしながら、ずりずりとフェンスまで後退する。心臓がバックンバックンいってる。腕が、恥ずかしいくらいブルブルガタガタ震えている。
「なにすんだよ」
「こ、こ、あ、」
「ココア?」
「ちが、‥‥あなたこそ!」
 こっちのセリフだよ! と言いたかったけれど、言葉にならない。いくら息を吸っても足りない気がして肺が苦しい。なのに彼女ったら深いため息なんぞついて、ぽりぽりと頭をかく。シャンプーのいい匂いがする‥‥じゃなくて。
「おれが落ちるとでも思ったか」
 おれって‥‥思いました。そう言う代わりに三つうなずく。またため息をつかれる。
「平気だよ、いつもやってるし」
 いつもってあなた。
 そう言うと、彼女はぼくの手を払うようにのけて、すっくと立ち上がった。まるでなにごともなかったかのように。そうして軽く伸びをして、またフェンスをよじ登っていく。
 なんていう女だ。肝が据わっているというか、図太いというか。
 あっというまに二メートル半を乗り越えると、彼女はすたすたと出入り口へと向かっていく。歩きかたがまた、女らしくない。がに股というわけではないんだけど、なんとなしにチンピラテイストだ。
 ぼくはといえばまだフェンスの外側。腰を抜かしたまま、立つこともできずにいる。うーん、これはひょっとして‥‥置いてかれる?
「あの、ど、どこへ?」
 勇気を振り絞って叫ぶ。情けない。情けないぜ、少年。さっきっから、声がひっくり返りっぱなしだ。
 彼女は振り向かない。ただちょいちょいと右足を上げてみせた。ああ、上靴ね。そういえば携帯電話もダイブしましたもんね。それで、ぼくはやっぱり置いていかれるわけですね。
 いやいや。気になどしなくていいんですよ。考えてみれば、そもそも、ぼくのことなんかあなたには関係ないですもんね。名前も知らないし。
 そう思っているうちに、彼女はドアの向こうへ消えていった。やがてぼくも落ち着きを取り戻し、ゆっくりとフェンスを乗り越えて、こちら側へ戻った。
 ああ、怖かった。死ぬかと思った。

 そろそろ空も赤みを帯び始めてきたので、グッドバイダイブはおあずけにしようと思う。
一・ 戻る
page top⤴  このエントリーをはてなブックマークに追加