HOMENOVEL>天使のいた屋上

天使のいた屋上

   三

 水溜まりに石でもあったのか、左腕にけっこう長い傷ができた。血がにじんでいる。体操着も茶色く染まってしまった。これにはさすがにみんな驚いて、自班のやつらは声もかけてくれたが、それに応えていられる状態じゃなかった。
 ナマクラ先生の指示で保健室に向かう。カシが付き添ってくれた。今まで話したこともないのに意外、かと思えば、保健委員らしい。痩せた長身の老け顔は、某お笑いタレントによく似ている。
「ヤジマくんってサッカーうまいんだねえ」
 間延びした口調で、感心したようにカシが言う。こっちは痛くてそれどころじゃない。
 保健室では、グラウンドでの騒ぎに気づいていたのか、クロタニ先生が待ちかねたように手当ての準備をしていた。緩やかに波打つ黒髪に、白衣のよく似合う長身。残念ながら男性で、女生徒にやたら人気がある。カシが事情を説明してくれたのだけど、二人が並ぶと、むしろカシのほうが年上に見えるからふしぎだ。
 それからカシは、ぼくの着替えを取ってくると言って出て行った。そこで、申し訳ないとは思ったけれど、鞄も持ってきてくれるように頼んだ。不在のうちになにかされでもしたらたまらない。カシは快く承諾してくれた。
 流水で泥を洗い流す。しみる。服を脱がされて、ほかにけががないかも調べる。出血は腕だけだったが、わき腹にあざができていた。
 クロ先生が丁寧に傷を調べて、消毒してくれた。深くはないけれど血が止まらないので包帯を巻く。
 窓からグラウンドに目をやれば、みんなが整列して座っているなか、サエジリだけが立たされて叱られているのが見える。いい気味だ。いや、そのお陰で今痛い思いをしているので、素直に喜べないのだが。
 日当たりのいい保健室には、妙に静かな、暖かい時間が流れている。ずっとここにいることは叶わないものかと、深く息をつく。
 ――そこに響くは嵐を呼ぶ電子音、ピロチカルン。
「‥‥なにしてるんですか」
 驚いて立ち上がる。つい乙女のように体を隠す。
 保健室の窓に切り絵。効果音はただ一つ。屋上よりも優しい風にさらさらと髪がなびく。服装は昨日と同じ、学校指定の緑のジャージ。さっきクロ先生と話していたのはこの人だったのか。
 昨日の彼女だ。
「あの‥‥?」
 質問には答えず、ピロチカルン。それきり、植え込みの木陰に消えていく。気になって窓に駆け寄ると、規則正しく並ぶイチョウの木の根元あたりをうろうろしている。まるでなにかを探しているような――あ。
「携帯、ひょっとして見つからないの?」
「‥‥今使ってただろ」
 うかつ。そういえばそうだ。つっこまれて恥ずかしくなる。
「よく壊れなかったね」
「本体はね。ストラップが壊れた」
「ストラップ?」
 そういえばビーズのストラップが二本、ついていたっけ。ほらと見せられた携帯電話についているのは、一本。もう片方は紐だけの状態で、バラバラになったウッドビーズが三つ、彼女の右手から現れた。こんな小さなものを探してるのか?
 ‥‥ぼくのせいだ。
「もとから落とすつもりだったから気にするな。ストラップを取り忘れたおれが悪い」
 心を読まれたかのようなセリフにドキッとする。淡々とした口調は、昨日よりわずかに力を失っているように思うけれど、きっぱりと潔い。ずっと探しているのだろうか、両手を上げてグッと伸びをして、それから振り返って。
「ああでも、上靴も見つからないのはおまえのせいかな」
「‥‥すみません」
 無表情で言われると怒ってるのかそうでないのかわかりません。でもぼくが悪いのはたしかなので、謝るしかない。
「ヤジマ、包帯巻くから座れ」
 クロ先生に促されて、丸いすに戻される。この位置からは彼女が見えない。ちょっと気がかりだ。
 ‥‥いや待て。今ってまだ授業中じゃないか?
 ちょうどそのとき、カシがぼくの荷物を持って戻ってきた。グラウンドではサッカーが再開されている。サエジリは隅で見学している。
「サエジリくん、落ち込んでるねえ」
「‥‥そりゃあ、そうだろう‥‥さ」
 カシが話しかけてきたことに少し驚いた。しかも仲のいい友だち同士のような、わりと馴れ馴れしい口調で――念を押すけれど、彼とまともに話したような記憶はないのに。
 返答に口ごもる。カシの顔をちらと覗けば、気にも留めぬようすでグラウンドを眺めている。変なヤツ、なんて思いながら、彼の目線を追う。
 ナマクラ先生は普段はテンションの高い明るい先生だけど、そのぶん怒るととんでもなく怖い。あだ名こそナマクラだけど、実際はきっちりしたいい先生だ。ときどき語るのが玉に瑕。たいてい自慢話で、聞いていてもおもしろくない。
 手当てが終わってもカシはまだいた。
「ナマクラ先生はおもしろいけど、体育好きじゃないからさぁ。保健委員っていいよね、けが人に付き添って授業抜けられるんだから」
 のほほんと笑って。それはなにか、きみはみんなのけがを、日々願って体育に臨んでいるのかい? まあいいけどね。荷物持ってきてくれたし。しかしクロ先生にたしなめられて、出欠簿の整理をさせられることになった。ぼくは見てるだけ。
 制服に着替えて、とりあえず授業が終わるまでここにいることにした。うん、やっぱり鞄を持ってきてもらっておいてよかった。休憩時間いっぱいまでここにいようっと。
「でもさあ、ヤジマくんさあ」
 なにが『でもさあ』なのかよくわからない、間延びしたカシの問いかけ。もっとしゃきしゃきしゃべれないのか。
「一年のころとか、サエジリくんとも仲よかったよねえ」
 そんでもっていやなことを平気で言う。一年のころ‥‥ああ、一年のときも同じクラスだっけ、コイツ。
 仲がよかったというか‥‥同じ部だったから否応なしに仲間扱いされていたというか。仲間意識があったというわけですらない。ただの、サエジリのステータスだ。子分は多いほどいいっていう、ね。
 それがなぜこんな具合になっているのかは――うん、訊かないでくれ。
「そうなのか?」
「あれ、カワシロちゃん」
 返答に困ってうつむいていると、アルトなハスキーボイスが横から割って入ってきた。それに先に反応したのはカシで‥‥知り合い?
「なんだ、おまえ、三年だったの?」
「あれ、知り合いなの?」
 二人から同時に質問されて。あの、訊きたいのはむしろこちらです。
 カシに腕を引っ張られて、ぼくらは窓辺に集まった。
「えと‥‥え?」
「ほら、おれ、写真部だったからさぁ。もう引退したけど」
 写真部。ああ、そういえば、彼女も写真部だと昨日言ってたっけ? それで写メコンがどうだかこうだか。といっても、うちの学校は全員なにかしらの部活に入らなければならないことになっているので、生徒のおよそ半分は写真部員だったりする。
 ただし、帰宅部同然のヤツは写真部部員を名乗らない。サッカー部がなくなってからはぼくも写真部に名前だけいたが、活動は一切しなかった。
 そうだ、そういえばぼくも、写真部部員だったっけ。どっちにしてももう引退してるけど。
「カワシロちゃんは?」
「昨日、屋上で」
「屋上?」
 彼女の答えになぜかハイテンションになるカシ。ほかにはだれがいたのかとか、二人きりでなにをしていたのかとか‥‥なにを期待してるんだ。
「写メ撮ってただけですよ」
 ‥‥そしてなぜ急に敬語になるんですか、えと‥‥。
「カワシロミズキ‥‥さん?」
 ジャージをよく見れば、『川代瑞生』と刺繍されている。珍しい苗字だけど、――え? ひょっとして、あれ?
「カワシロさん、って‥‥あの、」
 訊こうとして、黙る。
 窓枠に頬杖をついて、彼女がぼくをまっすぐに見つめていた。細く開いたまぶたの奥から、漆黒が覗いている。
 ああ、これは言ってはいけない。横にはカシもいる、背後にはクロ先生もいる、そもそも彼女は、ぼくのことをほぼ百パー知らない。直感して、言葉を飲み込んだ。すると彼女はわずかに首をかしげて、しかし続いたのは疑問文ではなかった。
「呼びやすいように呼んでくれたらいい」
 呼びやすいようにと言われても。
 残念ながらぼくは、昨日今日で知り合った人、しかも女の子を、苗字にさん付け以外で呼ぶような勇気は持ち合わせておりません。
「おまえは?」
「ヤジマ‥‥」
 答えようとして思わず黙る。伸びてきた細くて白い手。この人、尋ねておきながら人の話なんてまったく聞く気がない。
 制服の左胸につけたネームプレートをくっと引き寄せて、目が悪いのか細い目をもっと細める。
 シャンプーの匂い‥‥じゃなくて、じゃなくて!
「ヤジマハヤト」
 ふうん、と一人で納得する。慣れない。独特だ、この人。
「あいつらと仲よかったの?」
 強引に話を戻される。彼女は無表情のまま、カシは眉こそ心配そうにしているけれど、瞳は興味津々と言わんばかりにきらきら輝いている。
 もとより、そう仲がいいわけでもない二人だ。
「あなたには関係ないじゃないですか」
 言えない。
 うつむくと耳が熱くなった。のどの奥がギュッとしょっぱくなった。言えない。これは、言えない。
 彼女はしばらく黙ったまま、ぼくのほうを見ていた。いたたまれなくて目を逸らす。
「それもそうだな」
 あっけなく納得。昨日も聞いたような気がするぞ、このセリフ。カシはまだ聞きたそうにしていたが、彼女――カワシロさんが、植え込みへ戻っていくと、どうやら諦めた。そしてその後姿を追って、窓から身を乗りだす。
「カワシロちゃーん、授業はー?」
 カシが問いかけるけど、答えはない。代わりに振り返って、
「先輩、暇なら手伝ってくださいよ」
 ‥‥先輩?
「あの子後輩なの?」
「うん、二年生」
 なんて態度のでかい後輩だ。
 結局、ビーズ探しにつき合わされたものの、それは見つからなかった。あと四つあるらしい。上靴も見つからない。
 そのうちに授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。カシは先に教室へ戻り、ぼくもギリギリまで残っていたけれど、次の授業が始まっても、彼女はビーズを探し続けていた。
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