HOMENOVEL>新月、花の散る夜に。

新月、花の散る夜に。

   八

 結婚するまでに、二人は一度しか顔を合わせてはいなかった。そのときには縁談は拒むことのできないほどに進んでおり、二度目に会ったときには神に永遠を誓った。
 初めて会った日。なにか話したろうか――イリューは記憶を辿る。あのときは国王や多くの貴族たちが常にいて、互いにまともに話すこともできなかったように思う。
「けど、ほんの少しだけ、二人きりになった」
 思案するイリューの疑問に答えるように、シーユーが言った。
 会食を終え、貴族たちがこれから宿所に戻るシーユーのために馬車やら隊列の手配をし、国王もわずかばかり席をはずした。イリューの父も忙しく立ち歩いて、取り残されたイリューとシーユーは卓についたまま、迎えを待つしかなかった。
 ――そうだ、そのとき、なにかを話した。とても短い会話をした。
 少しずつ思い出す。
「わたし、あなたに訊いた。そして、あなたは答えた」

 あなたはわたしを愛しているの?

 まだ愛してはいない。けれどいつか、愛するようになるだろうと思う。

 ――あのときの緊張を思い出す。
 指先が震えた。耳が熱かった。息は苦しくて、舌はもつれて何度も噛みそうになって、頭は真っ白だった。
 イリューとて貴婦人との会話にはいくらも慣れている。しかし美女に愛を問われれば、高鳴る鼓動を落ち着けてはいられなかった。
「あとになって思い返せば、誠実な言葉だったと思うわ。初対面の相手に愛しているといわれても信じられないし、否定されても、わたしたちの結婚はやめられなかった」
 妻の手に重ねていたイリューの手。その手に、シーユーがさらに手を重ねる。優しく、ふわりと、包むように。
 白くてすべやかな小さな手が、大きな、がっしりとした手を愛おしそうに撫でる。イリューは思わず、彼女の手を握り締めた。
「それでもあのときのわたしは、『いつか』を信じられなかった」
 あの日、答えたあと、乙女は黙った。訝しがるうちに従者が迎えにきて、二人は別れた。やがて、イリューはこの短い時間を忘れた。
「約束とか、未来とか、‥‥愛とか。信じたら、信じても、裏切られると思った」
 閉じた瞳。長いまつげが夢見がちに揺れる。
 傾けた首。風になびく髪が、ほのかに香る。
 花の香り。
 指先に触れるかすかな吐息。
「そんな不確かな言葉を許せなかった」
 彼女もまた、彼の手を握り締めた。彼に比べれば弱々しい力だけれど、すがるような、頼りない力だけれど。
 それきり、シーユーは黙った。まだなにかを言いたそうにして、けれど唇の震えが、声を言葉にしてくれない。イリューはそっと抱き寄せて、彼女の長い髪を優しく撫でた。
 温かだった。
 人形ではない。人だ。心を持ち、痛みを知り、恐れを抱き、寒さに震え、温もりを求める。
 直に伝わる。彼女の鼓動、静かな息遣い、彼よりやや低い体温。
 小さな、笑み。
「ばくばくいってる」
 彼に向けたらしい言葉の意味をイリューはすぐには理解できなくて、わかると同時に体を離した。恥ずかしい。彼の心臓とて、黙っていてはくれない。
 けれどシーユーは強引に彼の手を引く。振り払うこともできたのに、小さな引力に、彼は従うしかできない。
 もはや暗闇。なのに互いの姿を、存在を、彼らは見失いはできなかった。ほかになにも見えない夜闇に、彼女の姿だけがはっきりと浮かぶ。
 散りゆくさくらの花の代わりに、彼女の笑顔が咲き誇る。
「わたし、あなたを信じるわ」
 ――あなたに期待する。あなたの愛に期待する。


 「帰ろう」
 イリューがそう切り出して、二人は立ち上がった。彼が手を引き、乙女は従う。
 歩き出してから数歩でイリューは振り返った。さくらのまとっていた輝きは、もう失われていた。シーユーも気づいて、寂しそうに眉尻を下げた。
 ――さよなら、ジャンク。
 妻の小さな呟きを、イリューは聞き逃さなかった。彼はその言葉を、心のなかで繰り返した。
 さよなら、ジャンク・クロウマン。
 応えるように木がさざめく。秘密の木の下での約束は、きっと果たされた。イリューはそう悟った。
 来た道を戻ろうと、川に歩み寄る。水のなかを進むのに、イリューが妻を抱き上げようとすると、シーユーは拒んだ。
「あなた、足に怪我をしてるでしょう。一人で歩けるわ」
 言われて思い出す。怪我というほどのものでもないが、とたんに痛み始める。いいや、顔には出すまい。それよりも気づかれていたことに驚いているうちに、妻は川のなかへと入っていった。イリューが慌てて追う。
 川面にはまだ花びらが漂っていた。
「来年は祭を楽しもう」
 イリューが声を掛ける。聞こえなかったのだろうか、先を行くシーユーは答えない。
「楽団の演奏だとか、花火だとか、露店だとか」
 叫ぶ。
 木々に跳ね返り、声が響く。
「さくらも見に来よう――二人で」
 妻が振り返る。黙ったまま、ほほ笑む。
 他愛もない話をしながら、二人は道を行く。途中でイリューが脱ぎ捨てた靴を拾い、けれど履く気にはなれなくて、彼はそのあとも裸足のまま進んだ。
 夜の鳥の鳴き声を聞く。ふと、イリューは思い出す。
「鳩が書斎の窓の外に巣を作ったんだ」
 夕暮れ、どこかへ飛び去っていったうしろ姿。今ごろはまた、巣に戻っているだろうか。
「明日にも片付けさせようと思ったんだけど」
「どうせまた作るわ」
 すぐに答えが返ってくる。イリューはふしぎそうにシーユーを見つめた。
「鳩は帰ってくるのよ、同じ場所に」
 同じ場所に。聞いたとたん、思わず笑い出す。
 ――ああ、なるほど、妻は鳩だ。
 飛び去ったと思ったのに、ちゃんと帰ってきた。
 一人笑う夫をシーユーは訝しがったが、イリューは黙って首を振った。
 山を下りきったころには、街はすっかり静まり返っていた。先ほど見た騒ぎが夢だったかのように暗い。ただ遠く、一軒だけ、明かりの灯る屋敷が見えた。疑いない、夫婦の家だ。
「ミティスかな」
 イリューが言うと、シーユーが立ち止まった。侍女には朝からずいぶん心配をかけた。きっとひどく叱られるに違いない、それ以上にどんな顔で帰ったらいいだろう。そら恐ろしさに、顔が泣きそうにゆがむ。
「大丈夫だよ」
 イリューが肩を叩いて、手を差し伸べる。けれどなおも動かない妻の手を、イリューは強引に取る。
 まるでいたずらをした小さな子どもみたいだ、とイリューは思った。いつもすましている妻がこんなふうに怯えているのはおかしかった。
 この一夜、今まで知らなかった妻をたくさん見た。ばらの人形の仮面をはずせば、なんてことはない、ごく愛らしい乙女が姿を表す。
「きみを待ってるんだよ」
 言いながら歩き出す。妻はまだ不安げに瞳を潤ませている。
 夜の街を行く。足取りが軽い。どうにもわくわくした。宴の残り香か、酒の匂いの混じるやや冷たい風が、二人の歩みを後押しする。
 夫婦は手を取り合ったまま、道を進んでいく。ときには足早に、ときには緩やかに。
 夫婦の家へと、帰っていく。

「ねえ、わたし、まだあなたを愛していないわ」
 すべてが溶けていくような夜だった。虚栄も、誤解も、孤独も、棘も。
「けれどいつか、愛せるようになると思う」
 約束が未来への道になる。
 これから満ちる祝福が二人を包む。
「ねえ、イリュー。わたし――」



 新月、さくらの散る夜に。



・ 八・
page top⤴  このエントリーをはてなブックマークに追加