HOMENOVEL>新月、花の散る夜に。

新月、花の散る夜に。

   一

 せっかくの美貌もその性格がため台無しだ、と、イリューはつくづく残念に思う。
 気に入りの赤いリボンで編まれた金色の長い髪、真っ白な肌に頬はほんのりと色づく。大きな黒い瞳は円らに輝き、長いまつげが夢見がちに揺れる。
 けれど彼女の唇はばらなのだ。
 だれの視線をも、心をも惹きつける真紅の唇は、棘を隠し持っている。
 彼の妻は、ばらの人形なのだ。


 「今夜ですね」
 窓の外に広がる平原に組み立てられた大きなひな壇を眺めて、嬉しそうに侍女のミティスが言う。
 空には雲が薄く伸び、肌寒い風に新緑の香りが舞う。東に白む太陽がおよそ目覚めの時刻を告げて、いつもは静かなこの時分に、今日は町のだれもがいつもより早くに起きて慌しく道々をゆく。
 黙ってうなずく妻の食卓に、給仕が朝食を並べていく。白い壁、彫刻の施された柱や天井、赤い豪奢な絨毯。なにもかもが立派なのに、この大きな卓だけは傷つき古びていた。
 こんがりと焼かれたパンとバターの匂いが食堂を包む。イリューも妻の隣に並んで掛け、ナプキンを広げる。
 静かすぎる。騒々しい窓外とはまるで別世界だと、イリューは思った。
 ――花送りの宵。
 もとは南の国、ハオン島の儀式の一つだったそれは、この国に伝わると祭として民衆を楽しませた。花咲きの季節の最後の新月の夜、散って葉のみとなったさくらの木を囲んで、人々は歌や酒に酔いしれる。この日ばかりは貴族も庶民も一緒になって、王家でさえ身分の差を忘れて笑い騒いだ。
 王家でさえ――もはや、過去の栄光だ。二十年も前にそれは失われている。
「あのひな壇では名誉楽団のかたがたが演奏をなさるそうですわ」
「知ってる」
 素っ気なく返すのは鈴のように澄んだ愛らしい声。まだ眠たげに目を擦りながら、卓に並ぶスープの湯気を見守っている。冷めてしまうから早く食べたらいいのに、とイリューは思うけれど、妻はさじを手に取ろうとすらしない。
 注意すれば猫舌なのと反論するだろう、そのくせ、冷めすぎてまずいと文句をつける。いつものことだからもはやなにも言わないけれど、妻のわがままにはほとほと愛想が尽きた。
 もとより愛情のなかった夫婦間に、今は会話すらもない。朝の食卓で喋っているのはもっぱらミティスのみで、彼女がいなかったらいったいどんな静かな屋敷になるだろう。ミティスは妻を幼いころから見ており、夫婦より十も年長だがそのぶん分別もある。妻も彼女を頼っているらしく、婚礼の際に妻が出した条件はいくつもあったが、使用人に関しては唯一、彼女を連れるということだけだった。
 こんな乾いた結婚生活を三年も続けてこれたのは、彼女がいたからだろう。真実、イリューはミティスに感謝していた。形だけの夫婦だけれど、二人は別れるわけにはいかなかったのだから。
 お互いの事情がために。


 ゆくゆくは女王になるはずだったという自負が、彼の妻――シーユーにはあった。
 かつてヘオン島を支配したルスティコ王国。島の歴史が始まって以来、歴代の国王を中心に千年以上も栄えてきた、小さいながらも平和な国だった。
 しかし二十年前に起こった戦をきっかけに、隣国、コモードの支配を受けることになる。
 トオン島を支配するコモード国は、戦を繰り返して領土を広げてきた歴史を持つ。また陸地のほとんどを山林が占めるルスティコとは対照的に、産業に栄え、土地を開拓してきたコモードには兵力も多くあった。国土そのものの広さに大差はないものの、多勢に無勢、勝ち目は初めからないに等しかった。
 終戦ののち、ルスティコ王家はさまざまなものを失った。領土はもちろん、地位や居城、家臣や富。そればかりか当時の老いた国王も、敗戦の報せに胸を裂かれてその命を絶たれてしまった。残された妃と幼い子どもたちは忠実な家臣のもとに身を寄せたが、そのあとすぐに、妃は夫のあとを追うように亡くなった。
 家臣は王の子らを大切に育てたが、彼らが成長したころには、ルスティコの民はかつての王族のことなど、もう覚えてはいなかった。コモード国王は慈悲で彼女に爵位を与えたが、慰めにもならなかった。
 だからこそだろう。だからこそ、彼女はこの夫に不満を隠せずにいる。
 イリューの家系に、もともと爵位はない。しかし先の戦争で彼の父親が立てた功績は大きく称えられ、コモード国王から騎士の称号と広大な土地とが与えられた。
 イリュー本人とて決して悪い男ではない。性格は実直だし、見目とて妻と並んでも劣るところがない。明るい栗色の短い髪は整えられ、藍色の目はいつも笑んでいるように見える。スッと通った鼻筋も決意固く結ばれた唇も、ほかの貴婦人に言わせれば眉目秀麗、非の打ちどころのない青年ともてはやされている。
 美男美女。若い二人の結婚を、周囲のだれもが羨んだ。本人たちを除いただれもが、彼らの幸せを信じて疑いはしなかった。いや、最初だけは、イリューも信じていたのかもしれない。
 花の棘を知るまでは。

 「あなたはめかし人形ね」
 契りを交わした初夜に、シーユーはそう彼を罵った。
 花待ちの季節の、最初の新月の夜だった。コモードの古くからの信仰で、これから満ちる新月は愛する二人の門出にふさわしいとされている。
 なのに彼女は、式が終わるとそれきり、夫に触れようともしなかった。ほほ笑みもせず、見下すような目で夫を冷笑する。そこでイリューは初めて、自身の誤解に気づいた。
 二人を結びつけたのは、愛などではなかった。
 イリューはシーユーの持つ爵位を、シーユーはイリューの家が持つ資産を得ることができる。つまりは政略結婚だ。さらには仲を取り持つのが国王なれば、拒むことのできるはずもない。
 仕方のないことと、イリューは自分に言い聞かせた。富むものは生きることに苦労がない代わりに、自由を諦めなければならない。しかし、見ろ、運がいい。こんな美女と結婚できるんだ、なにを嘆くことがあるだろう。
 きっと彼女とて同じだ。これまで幾多の女性たちを魅了してきた彼だ、それなりの自負心もあった。
 うまくいく。似たもの同士、すぐには無理かもしれないけれど、いつか愛し合うことも叶うだろう――彼女もそう思っていると、イリューは信じていた。
 違った。
「めかし人形?」
「そうよ、お金をかけてきれいに飾られたお人形さん。だれかの言いなりになって好きでもない相手と結婚してしまうような、ただのお人形さんよ」
 言い切って顔を背けるシーユーに、イリューは呆気に取られた。まだしわ一つないベッドに乱暴に身を放り、できるだけはじに寄る。小さなランプが照らすだけの暗い部屋に、ぴりりと張りつめた緊張が走る。
「あなた、そちらの隅で寝てね。いいこと、わたしに触れないでちょうだい」
 大きな瞳を細めてイリューを睨みつけながら、低い声で冷たく言い放つ。ランプの灯りに顔が青白く浮かび上がり、唇がいっそう赤く見えた。
 ばらの唇。への字に曲がった、棘の唇。
 イリューはしばらくその赤を見つめていたが、やがて言葉の意味を理解すると、怒りに顔を紅潮させた。
 侮辱だ。人形だと?
「きみだってぼくのことが好きなわけではあるまい」
「そうよ、わたしも人形。だから期待なんてしないの」
「期待?」
 声を荒げる彼に、シーユーは淡々と答える。怒鳴られたことに対する畏怖も動揺も見られない。慣れた手つきで編まれた髪をほどき、靴を脱ぎベッドのわきに揃えて、それからゆっくりと振り返る。
 冷たい。言葉だけではない、その瞳も唇も、頬も髪も吐息すらも、冷たい。人の温もりをまるで感じない。
 感情のない視線が、イリューに注がれる。
「期待なんかしないのよ、人形は――幸せなど、愛など」
 真実、それは人形だ。
 それは真実、美貌の人形だった。


 ポン、ポン、と、遠くで音花火が打ち上げられた。見やれば白い煙が青空に漂っている。戦以来、二十年も沈黙を続けてきた祭が予定通りに開催される。
 花送りの宵。
 その実、イリューはずっと心待ちにしていた。この土地の生まれではないイリューにとっては馴染みのない行事ではあるけれど、祭となれば、堂々とこの屋敷から抜け出すことができるだろう。
 たった一晩でも、たった一瞬でも。
 人形ではなく、意思と自由と期待を持った、一人の人間として。

一・
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