HOMENOVEL>新月、花の散る夜に。

新月、花の散る夜に。

   四

 いけない。
 イリューは慌てて本を閉じ、はがきの半分ほどの大きさに畳まれたそれを拾った。ざらざらとした手触りのもとは真っ白であったろう紙は、長らくここにあったのだろう。全体に黄ばみ、角などは擦れて黒ずんでいる。
 どくんと、胸が強く打つ。粗悪な紙に、いたずらに滲む薄いインク。いいや、それにしても一文字一文字が大人の書くより大きいことは、この状態からもわかった。
 ふと、違和感を覚える。きっと幼いうちに妻の書いたものに違いないが、それにしては紙が粗悪すぎた。もしも戦時に書かれたものならば、いかに王女とはいえ、紙を手に入れることもままならなかったと推測することはできる。しかし、それにしては挟んでいた日記帳は上等なものだ。
 この紙だけ、あとで挟まれたものだろうか。あとで――つまり、日記は戦前から書かれていたが、これはそののち、戦が始まってから書かれたのか。だがそれならば、彼女の書いたものではないだろう。自分のための覚え書きならば日記でこと足りる。
 考えるうち、手は無意識にそれを開いていく。年月の経った紙は脆く、ときおり、ぱきりと嫌な音を立て、また小さく破れもした。
 しかしついぞ、紙は完全に開かれた。察したとおりの、子どもらしい拙い字が綴られている。書き慣れぬ文字は大小が揃わずに、また波打っていたが、読めないことはない。誤字や脱字が多いなか、イリューはそこに、妻の名前のあることを認めた。
 シーユー・ファム・レ・シェンド。かつてルスティコ王国を治めた一族の、いまや失われた名とともに、たしかに記されている。彼女は戦に負けたことからその名を失くし、以来、敵国と憎むコモードから与えられた姓を名乗っていた。
 いつもの彼なら、幼いころの名を今も捨てられずにいる妻を哀れに思うだけで留まったろう。見渡せば屋敷内のところどころにある古びた家具も、彼女が幼いころから親しんだものだと知れば、その実、彼女がいかに過去を惜しみ、思い出を偲んでいるのかを推測するのはたやすい。この机こそ、彼女がその地位あるときに、愛する父母から贈られたものだろう。あの食卓こそ、彼女がその地位あるときに、愛する家族らと囲んだものだろう。
 しかし、イリューの目はその上に滲む文字を見つめていた。
 ジャンク・クロウマン。
 ようやく読み取れたのは、イリューの知らないだれか――男の名前だった。姓から察するに、貴族や騎士ではない。平民によくある名だ。
 突然、胸に得体の知れない不愉快なものを感じ、イリューは眉をしかめた。ざわざわと不安をあおる、冷静を掻き乱すなにかが、この名にはある。
 並ぶ二人の名の下に、さらに拙い文章が続く。
 ――忌々しい!
 なんと愚かな怒りを抱くものだと、イリューは心のどこかで自嘲しながら、けれどこの幼い誓いに腹をいら立たずにはいられなかった。十何年と昔の――いいや、これを見れば戦前、二十年前のものとわかる――幼い二人の幼い誓いに、なぜ自分は、こうも腹を立てねばならないのか。
 誓いだ。幼くも拙くもあるそれは、けれどたしかに、誓いの言葉だった。
『つぎのよいにも、わたしたちはかわらず、たがいをあいし、ひみつのきのしたで、あたらしいちかいをたてることを、わたしたちはやくそくします』
 ――たがいをあいし。
 イリューの手は、日記帳へと伸びていた。長いこと厚みあるものを収めていた紙は形通りに潰されて開きやすくなっており、この誓いの挟まれていたページを探すのは、さして難しいことではなかった。日付を見ればたしかに二十年前で、内容から読み取るに、花送りの宵の催された日だとわかる。
 日記の文字は、誓いのそれとは筆跡が異なっていた。なるほど、違和感はこれだ。むろん子どもらしい拙さはあるが、シーユーの書く文字はもっと丁寧で読みやすかった。
 つまり紙を用意し文書をしたためたのは、この見知らぬ男――ジャンク・クロウマンという男なのだろう。彼には上等な紙を用意することができなかったに違いない。
 いいや、今はそんなこと、どうでもよかった。
 問題は、妻が、シーユーがこの男をどう思っているか、だ。が、冷静になって考えれば、その古い誓いを妻が今も持っているということだけで、答えは出ているようなものだ。
 ほかの日に比べればごく短い内容ながら、幼い日の妻は、楽しかったとはっきり書き残している。
『もうねむいので、きょうはすぐにもねますけれど、きっとゆめのなかでも、ジャンクはあいにきてくれると、わたしはうれしいとおもいます』
 らいねん、またあえるひがたのしみです――そう、締めくくられていた。


 ジャンク・クロウマンとはなにものなのか。
 イリューはそれ以上は日記を見ることはやめ、自室に戻った。というのも、許しもなく人の日記を盗み見ることは恥ずべきことだし、彼女の思い出に一人勝手にいら立つ自分の愚かしさも、十分にわかっていた。
 いよいよ日が傾き始め、祭の開始を告げる花火が打ち上げられた。まだ明るい、柔らかな橙色の空に、残るのはやはり白い煙だけだった。
 楽しみにしていた祭だ。それなのに、どうにも心は晴れない。罪悪感もある。けれどそれ以上に、なにか掴みどころのない、どこに向ければいいやらわからぬ怒りにも似たいら立ちが、彼の胸にもやをかける。
 いいや、これは今に始まったことじゃあない。ずっとだ。ずっと、このもやがある。
 原因はわかってる。妻だ。シーユーだ。麗しの生きた人形だ。冷たい眼差しの、棘の唇の、笑わぬ頬の、けれど唯一、侍女にのみ真実を見せる、ばらの乙女だ。
 わかってる。知りたいだけだ。三年も一緒にいながらなにも知りえなかった彼女のことを、彼は知りたいだけだ。
 ただの興味だ。夫としての権利だ。
 そう、呪文のように唱えながら、イリューは書棚に手を伸ばした。たくさんの書類をまとめた本のなかから一冊を選び、取り出す。
 ルスティコの住民名簿だ。十数冊に及ぶ書類のなかから選び出したのは、姓の頭文字で順にまとめられているうちの、『ク』を含むものだった。
 彼が調べたかったのは、やはりジャンク・クロウマン。
 本を開きながらその場に座り込み、イリューは丁寧に調べた。ヘオン島においては、クロウマン姓は決して珍しいものではない、ごくごく平凡なもので、名簿にも数十ページに渡っていくつもの名前が並んでいる。
 しかし五分そこそこで早くも彼は行きづまった。そこに、ジャンク、という名はない。
 この国の人間ではないのだろうか。これ以上の経緯はわからないが、花送りの宵には他国からも観光客が訪れたと聞く。当時、たまたまルスティコに訪れたのかもしれない。
 いや。しかし、トオン島でクロウマン姓を聞いたことはない。もちろんいないとは言い切れないが、ジャンク・クロウマンという名前から貴族でないことは推察されるし、もし地位ある人物ならイリューも知っていていいはずだ。貴族でもないものが行楽のために海を渡るとは考えにくい。ジャンク・クロウマンが当時子どもであったことを考えればなおさらだ。
 では、そののちに異国に渡ったのだろうか。もしそうならば、イリューにとってどんなに都合がいいだろう。
 もしジャンク・クロウマンがシーユーを愛していたならば、島を離れはしまい。もし互いに愛し合っているならば、いかに彼女が結婚しているとはいえ、近くに暮らし愛を育んでも差し支えないと考えるだろう。こんなに冷めた結婚生活を送る夫婦だ、互いにほかに恋人を持っても、世間体さえ守れればなんの問題もない――という考えかたに胸も締めつけるなにかを感じながらも、けれど妻がそうしなかったことを、イリューは少しだけ安堵した。
 ジャンク・クロウマンは、もう妻を愛してはいない。仮に愛していたとしても、彼はもう諦めている。結論は出た。
 イリューは大きくため息をついた。そして柔らかい絨毯に、ごろりと仰向けに寝転ぶ。膝に開いたままの名簿が、窓から吹き込んだ風にパラパラとめくれた。
 目を閉じる。閉じられたまぶた越しにも、外が暗くなってきたことはわかった。ぼんやりと深い朱色の光で書斎は満たされ、わいわいと騒ぐ民衆の声が聞こえてくる。実に楽しげなざわめきが、窓の外、壁のむこうで響いている。
 屋敷内は、静かだ。使用人たちも、今日は自由を与えている。
 ――ああ、存分に楽しんでくるといい。なにしろ、二十年ぶりの花送りの宵なのだから。
 自分にとっては初めてだけれど――と、イリューははっと気づく。
 二十年前の、花送りの宵。
 その日こそ、ジャンク・クロウマンと、妻、シーユーが約束を交わした日。
 けれど、翌年、花送りの宵は開催されなかった。その次の年も、また次も、次も。そしてようやく催されたのが、今年。すなわち、今日だ。
 ――疑いない。
 心臓が、どくりと大きく打った。耳の奥が、キインと静かに鳴った。冷たいなにかが、額を伝い、背筋を突き抜けた。
 ――ジャンク・クロウマンが、妻を奪いに来る。
 確信めいた声に、瞬きも忘れる。鼻の奥がツンと痛くなる。横たわったまま、体からはどんどん力が抜けていく。
 肝心なことを忘れていた。なぜ、彼がジャンク・クロウマンという男の名を知ったのか。
 たとえばジャンク・クロウマンが妻を愛していなかったとしても。ジャンク・クロウマンが、結婚した妻を諦めていたとしても。
 シーユーは、きっと今でも、ジャンク・クロウマンを愛している。
 心臓が早鐘を打つ。
 ――ジャンク・クロウマンが、シーユーを奪いに来る。

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