HOMENOVEL>新月、花の散る夜に。

新月、花の散る夜に。

   三

 「シーユーが泣いた?」
 驚いて声を上げるイリューに、ミティスはうなずいて答えた。
「ああ、誤解なさらないでくださいませ。お嬢さまはもともと、とても寂しがり屋なのです」
 イリューには意外だった。妻を思い出そうとすれば、美しいけれど、まるで人形のように感情のない顔しか浮かばない。人を罵りはしてもいら立ちを見せはしない。貴族たちの前で愛想笑いはしても、心の底から笑いはしない。むろん、泣くはずもない。
 だのに寂しがり屋、だなど。
 不愉快にも思う。屋敷にはいつもだれかがいる、ミティスだってこんなにも妻のことを気に掛けてくれている。だのに寂しいだなど、それはわがままではないか。
 だいたい夫である自分をも遠ざけたのだって、妻自身じゃないか――知らず、イリューは拳を握る。痛みに気づいて手のひらを見やれば、爪のあとがくっきりと残っていた。
 ミティスがため息をつく。
「旦那さまは、お嬢さまのことがお嫌いですか?」
 不意に問われて、イリューは思わず目を泳がせた。好きか嫌いかで問われれば、‥‥正直、答えられない。
 好きではない。あのようなわがまま娘、気に食わないことばかりだ。
 けれど、嫌いでもない。というのも、嫌いになるには、まだ彼女を知らなすぎるように思えた。なにを考えているやら、無表情の顔からは真意も読み取れぬ妻を、イリューは苦手には思えども無下にはできない。
 なにがそんなに彼女を頑なにするのか。それこそただのわがままなのか、いいや、ミティスの言うように、寂しいからなのか。だとしたら、そのわけを知りたい。
 なにも知らぬまま拒みたくは、ない。
 髪より細い絆ではある。けれど少なくとも、イリューにはこの土地での数少ない、繋がりある存在。悔しくはあるけれど、失いたくなかった。
「彼女は美しい人だと思います」
 偽りなく口にできるのはここまでだった。じっと彼の目を見つめて答えを待っていたミティスは、言葉に小さく笑った。乾いた、寂しげな声で。
「そうですとも、お嬢さまは本当にお美しいかたです。だからこそ傷つきやすいのですよ、旦那さま」
 それきり、ミティスはまた口をつぐんだ。


 昼食が部屋に運ばれてきたとき、ミティスはもういなかった。侍女は再び自らの女主人を探しに出て、イリューは机に向かい積まれた書類を前にしながらも、頭では妻のことを考えていた。
 美しい妻。長い金色の髪、真っ白な肌に円らな黒い瞳。周囲の人々はこぞって、彼女の容姿を褒め称える。けれどその真紅の唇の棘に、だれが気づこうか。
 性格がため、台無しだ――考えるほどにいら立ちが募る。
 妻はかつて彼をめかし人形だと侮辱した。そして自分自身も人形だと、だから期待はしないのだと言っていた。幸せも愛も、期待など。なのに寂しいだと? ばかばかしい、自分から拒んだくせに。
 食事のときもそうだ。だいたいにして、妻はわがまますぎる。彼女が文句を言うたびに使用人たちが小さくため息をつくのを、妻は気づいているのだろうか。
 ――ああ、まったくどうかしている。
 窓を振り返れば、ひな壇に名誉楽団の団員らしい正装をした男たちが数人、集まっているのが見えた。なにをしているのかはわからない。楽しそうに笑いながら、椅子を並べたり譜面台を調節したりしている。
 名誉楽団はもともと、ルスティコ王家に仕える宮廷楽団だった。普段は王や貴族らのために演奏していた彼らだったが、花送りの宵だけは、国民のだれもがその美しい音色を楽しむことができた。
 彼らは王家がその地位を失っても音楽を捨てず、民衆の心を慰め励まし続けてきた。彼らこそルスティコの誇りだと、人々は口を揃える。戦争が終わり、コモードの支配下に置かれた今も、彼らは懐かしいルスティコの唄を守り続けている。
 イリューも一度だけ、演奏を聞いたことがある。彼にとっては異国の音楽だが、なにか心安らぐものを感じたのを覚えている。心震わすものを感じたのを覚えている。
 シーユーも隣にいた。初めて耳にした音楽にこんなにも感動したのだ、妻にはもっと懐かしかろう。そう思ってイリューは見やったが、彼女はいつものようになんの感情もなく、ただ少しうつむいているだけだった。
 いつものように。そう、いつものことだ。
 サンドイッチを頬張り、傍らの書類を見やった。時間が空いたと思って再開した仕事も、考えるほどにばかばかしくなってくる。
 本当ならイリューだって、こんな見も知らぬ土地に縁付き、馴染みもない人々を相手に政を行うはずではなかった。生まれ育った家で嫁をもらい、平凡ながらも幸せな家庭を築くことだって叶ったはずだ。
 父親が手柄さえ立てなければ。そんなことを願ってみても今さらどうしようもないし、父親とはいえ、国の英雄を罵ったところで非国民とされるのがおち。そうとはわかっているけれど、恨み言の一つも言いたくなる。
 よりにもよってあのような、笑わぬ、怒らぬ、泣かぬ女など――いいや。
「シーユーが泣いたのか」
 一人、ぽつりと呟く。答えるものなどない。ただ柔らかく吹き込んだ風に、カーテンがふわりと膨らんだ。
 なにが悲しくて泣いたのか。そして、なにを思って姿を消したのか。
 朝食にも口をつけずに出て、しかしまだ戻ってきたらしいようすはない。妻は華奢だしもとより小食ではあるけれど、いつまでも食べずにいられはしまい。
 花送りの宵を催すに、なにか不都合があるのか。いいや、ならばもっと早くに言うだろう。だいたい泣くことのほどでもあるまい。
 寂しがり屋。ミティスはそう言った。
 ――ああ、振り出しに戻ったな。
 一番いら立たしいのは、どんなに否定してみせても、つい妻のことを考えてしまうことだ。
 妻が泣いたなどということにこんなにも心を囚われてしまうだなんて、まったく、どうかしている。
 彼女にも感情があったのか。いや、むろんそうであろう。
 ――もしも。
 ふと、思う。
 ――もしも、彼女が笑ったら。
 どんなに美しかろう。嬉しいとき、喜んだとき、シーユーはどんなふうに笑うのだろう。
 ミティスの気持ちがよくわかる。もし彼女を喜ばせられたなら、彼女が笑ってくれたなら。きっと自分にとっても至福に違いない。
 興味が出てきて、イリューは食事を終えるなり席を立った。部屋を出ると給仕が待ち構えていて、親指で示すと一つ礼をして、食器を片付けに部屋へと入っていく。イリューは一瞥し、そのまま廊下を進んだ。
 目指すはシーユーの寝室。日没を眺める、最西の部屋が彼女のそれだ。扉を叩いても返事はない。鍵はかかっておらず、ノブに手を掛けるとすんなり開いた。
 やはり、だれもいない。
 妻の趣味だろうか、白を基調にまとめられたたくさんの家具はフリルやレースで飾られ、窓には赤い花が飾られている。一人で使うには広すぎる室内の足元を、桃色の豪奢な絨毯が覆っている。
 見渡して、イリューはそれに気づいた。片隅にぽつんと置かれた、小さな木製の机だ。白く塗装されているが、古いものなのか、あちこちに傷が目立つ。大きさから見ても子ども用だろう。
 なぜこんなものがあるのだろう? そういえば、食堂の卓もずいぶん古いものを使っている。この屋敷は彼らが結婚した際に建てられ、家具も新調したはずなのだが、ところどころにそういった古いものがある。気にならなかったわけではないが、家具を選んだのはシーユーだったから、わざわざ訊こうとは思わなかった。
 可愛い机だ。よく見ると拙い筆跡で小さく落書きされていて、書棚にはぼろぼろになった絵本やくたびれた日記帳が並んでいる。なかにはまだ新しいものもあった。
 やがて思いつく。なるほど、これは恐らく、シーユーが幼いころから使っていたのだろう。そして今も使っているのだろう、はじに置かれたインク瓶は、まだ開けられたばかりだった。
 書棚を眺める。疑わずとも、これらは妻の日記だ。十数冊にも及ぶ分厚い日記帳を見れば、これが幾年かに渡って書かれたものであることは明白だった。意外と几帳面だったんだなと、イリューは小さく笑んだ。
 いつから書き始めたのだろう。そっと手を伸ばす。が、やめた。それは恥ずべき、あまりに無礼な行為だ。
 しかし気になる。もし二十年以上前からならば、花送りの宵についてもなにか書かれているかもしれない。
 ――ああ、やはり知りたい。
 ミティスの聞いた、花送りの宵の、シーユーの思い出。もしかしたらそれこそが彼女の寂しさのもとなのかもしれない。このどこかに、それが書かれているのかもしれない。
 楽しそうに話したと、ミティスは言った。楽しい思い出は、ときに感傷的にさせるものだと、イリューは知っていた。
 緊張に指が震える。イリューは書棚の一番隅の、一等古びた日記帳を手に取った。振り返り、だれもいないことと、扉が閉まっていることを確認する。今、自分は妻を裏切ろうとしている。そんな罪悪感のためか、本はひどく重く感ぜられた。
 ページをめくる。と、なかから一枚、丁寧に畳まれた紙がひらりと落ちた。

・ 三・
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