新月、花の散る夜に。
五激しい羽音とともに夕焼けの赤を影がよぎった。驚いて上半身を起こし、見やれば、羽ばたいていく鳩のうしろ姿が見えた。
ため息を、一つ。窓を閉めようと立ち上がり、ふと見上げてみれば、そこに鳥の巣が作られ始めていることに気づく。
――ああ、面倒だな。
あの鳩が卵を産み、ヒナが孵り、飛び立つ日まで、きっと鳴き声に悩まされるのだろう。フンだってひどいに違いない、そうしたら窓を開けることもできなくなる。
明日にでも使用人に言いつけて片付けさせよう。忌々しげに主の去った未完の家を睨みつけ、窓を閉める。けれどどうにも気になって、立ち尽くし、しばらく巣を見つめた。
家をなくした鳩は、どこに帰るのだろうか。
いいや、きっと新しい居場所を求め、ここを去るに違いない。
ここを、去るに。
窓の縁に額を当てて、目を閉じる。静かに長く息を吐き、なんとなしに心に居座る虚無を右手で握り潰す。
砕けない。それはまだ、そこに佇んでいる。
――妻は今も、ジャンク・クロウマンを愛している。
二十年の想い。イリューと暮らした三年など取るに足らぬ。彼女に真の想い人があればこそ、彼は拒まれ、彼女は今朝、屋敷を出た。なんだ、知ってみれば、なんと単純でつまらない三流物語じゃあないか。
望みのないわけでもない。二十年前の幼い約束を、ジャンク・クロウマンは覚えているだろうか。彼が忘れていてシーユーの前に現れないことを、イリューは強く願った。が、彼の期待は、妻には心破れる悪夢だ。
もしも恋物語ならば、誓いはたしかに守られ、彼女は遠くだれも知るもののない土地で幸せに暮らすだろう――トオン島に伝わる伝説にも、そんな物語はよくある。だとすれば、イリューはさしずめ、姫を奪った悪党ということになる。
ああ、似合いだ。コモードには英雄の子、ルスティコの民には憎き敵。侵略者は麗しの姫を強引にめとり、彼女のほほ笑みは永遠に失われるのだ。
自嘲し、笑う。
「いいじゃないか」
吐き捨てるように呟く。自分に言い聞かせるように、イリューは幾度となく、その言葉を繰り返す。
――いいじゃないか。
妻は自分など愛していないのだ。それは自分とて同じ。今まで妻を愛してなど、いなかったではないか。
ジャンク・クロウマンは妻を幸せにする。失われた彼女のほほ笑みが、喜びが、未来への期待が、彼によって甦るのだ。
それを許せないのは、彼女だけが幸せになるという嫉妬だろうか。だとしたら、自分はなんと狭量だったのだろう。
悪役でいいじゃないか。妻が幸せになればいいじゃないか。
なのにそれだけでは済ませられない喪失感が、怒りでなく、悲しみでなく、妻への想いを募らせる。
――愚かだ。なにを、今さら。
日は、いよいよ沈んだ。イリューはまた大きなため息をついて、静かに部屋を去った。
屋敷内はどこもかも、静まり返っていた。
月のない夜に、花火が大きな音とともに咲き乱れ、美しい光で空を照らしていた。
露店がところ狭しと軒を連ね、店主たちの威勢のよい掛け声が響く。お菓子やおもちゃ、サンドイッチにスープ。また銘酒リトミコまで売られていた。人で溢れる表通りには、面をつけた子どもたちが砂糖菓子で口許を汚し、ほろ酔いの大人たちが上機嫌に歌を歌っている。多くの人がもうすぐ始まる名誉楽団の演奏のため、ひな壇へと向かっていた。
その流れに逆らい、比較的空いている裏通りを、イリューは一人で歩いていた。表通りに比べればずっと歩きやすいものの、彼の顔は目立ちすぎる。ぼんやりと道を行く領主を見つけた人々は遠巻きに彼を指差し、ときには呼び止め、この宵の功労を称えた。
彼がなくば、花送りの宵は催されなかった。ルスティコの民は、今やだれもがイリューに感謝し、心から信頼を寄せていた。
民の笑顔は、イリューにいっときの安らぎを与えた。けれど次にはまた、妻のことを考えて気が沈む。空腹に耐えかねてパンとスープを買ったものの、店主の気遣いに妻のぶんも持たされ、また彼が一人でいると知った民は、なんの躊躇も悪意もなしに奥方のゆくえを彼に尋ねた。イリューは曖昧に笑ってごまかし、彷徨いながら落ち着ける場所を探した。
寂しい。
ずっと楽しみにしていた祭だというのに、彼は楽しめないでいた。見渡す限りの人々が、すれ違う限りの人々がみな楽しそうに笑っているというのに、彼は孤独だった。
今に始まったことでもない。ヘオン島に来てから彼はずっと孤独だった。ただ今夜だけは、平民たちに混じり、ともに騒げると期待していた。
現実は、そう甘くはなかった。
彼に挨拶する民も、しばらく話したら去っていく。彼らには彼らの友がすでにあり、ましてやこれから名誉楽団の演奏が始まるというところ、会場から遠ざかっていく人間をだれが呼び止めよう。
それにイリュー自身、見知らぬだれかと騒げる気分では、とてもなかった。
恋しい。
この宴に、孤独なのは彼だけだ。人ごみを歩けば、より強く思い知らされた。
あてもなく進むうちにいつしか町を抜け、傍らを流れる小川を辿る。まばらだった木々の間隔が徐々に密になって、小さな山を登り始めていることに気づいた。振り返れば色とりどりの灯火が遠くに見える。登れば全体がよく見えるかもしれないと思いついて、彼は川伝いに、さらに進んでいった。
川は水しぶきを上げながら、ごつごつとした岩のあいだを流れていく。ほとりには高い木々が伸び、足元には愛らしい花々が優しい葉を広げていた。砂利道は革靴に易しくはないけれど、幼いころに遊んだ山が思い出されて、彼は小さくほほ笑んだ。
――もしジャンク・クロウマンがいたなら、自分はコモードに帰ろう。
自分の心に誓う。
そうだ、彼女があの屋敷を去ることなどない。ジャンク・クロウマンもシーユーも恨むことなく、潔く身を引こう。そして懐かしい故郷に帰ろう。けれど国王には、どうか彼女らの地位を危ぶむことのないように願わねばなるまいな。
やがて道は崖に遮られる。岩を足場に登れないことはないが、そこまでして探求することもないだろうと、彼は腰を下ろした。先ほど買ったスープとパンを広げ、町を見下ろす。が、木々が邪魔をして、思うほどよい景色ではなかった。ただ花火だけはきらきらと輝き、音がいくらか遅れて、彼の元まで届いた。
虚しい。
食事はあまりおいしくなかった。進みもよくない。腹は減っているのに、スープですらのどをうまく通らない。
今日は幾度、ため息をついたろう。だのに飽くこともなく、また一つ。食事も諦めて仰向けに寝転がれば、川のしぶきに髪が濡れた。
月のない夜。コモードでは、これから満ちる新月は愛する二人の門出にふさわしいとされている。
彼女と結婚した日も、新月だった。
花待ちの季節の最初の新月の夜。彼女と二度目に会った日。あと一月で、あれからまるまる三年だ。長いようで、振り返れば短い時間だった。
それが、もう終わる。きっともう、シーユーは屋敷には戻らない。
そうなればもう会うこともない。顔を見ることもない。金色の長い髪も、真っ白な肌にほんのり色づく頬も、大きく円らな黒い瞳も、夢見がちに揺れる長いまつげも、‥‥棘を隠したばらの唇も。
たぐいまれな美貌のほほ笑みも。
三年も一緒にいたのに、失うときになって初めて、その輝きの尊さに気づく。拒絶に屈し、輝きから自分が目を背けていたことに気づく。
――叶うだろうか。
最後に一度だけ会うことは。一度だけでも笑顔を見ることは。一言だけでも告げることは、叶うだろうか。
探そうか。‥‥いいや。
遠くに煌く花火のはかなさを横たわったまま眺めながら、イリューは短い結論を出した。
――やめよう。
やめよう。妻はもはや、彼の妻ではないのだ。
遠く、ファンファーレが響いた。いよいよ名誉楽団の演奏が始まるらしい。けれど離れすぎたここに届くのは、和音の欠けた低い音ばかりだ。
今戻れば聴けるかもしれない。そう思いつつも、彼は動かなかった。傍らに置いた二杯のスープは冷め始め、気づけば髪はすっかりびしょびしょになっている。
仕方なしに起き上がり、髪を整える。衣服に冷たい水が滴るのは不快だが、自業自得だと開き直った。
と、髪になにかがついていることに、彼は気づいた。水に濡れたそれは手にぺたりと貼りつき、よく見ると川面にもちらちらと同じようなものが浮いている。
小指の爪ほどの、薄くて丸い、白いもの――花びらだ。
それがなんの花なのか、イリューにはすぐにはわからなかった。というのも、花咲きの季節とはいえ、もう残ってはいないと、彼は思い込んでいた。
胸が大きく打つ。
さくらだ。
それと気づくやいなや、彼は川上を見やった。わずかずつではあるけれど、たしかにちらちらと、波間に揺られて花びらが流れてくる。
さくらだ。さくらが、まだ咲いている。この川を辿れば、そこにまだ咲くさくらがある。町ではもうとっくに散りきったというのに。
息を呑む。蛍のように川面に光る可憐な花びらに、目を奪われる。
行くか行くまいか。いいや、悩むより先に、彼はもう岩場に足を掛けていた。パンとスープを手に、革靴のまま水に濡れた岩場を進むのは決して楽ではなかったが、それも構わずに、彼は進んだ。
行かなければ後悔する気がした。
崖を登りきり、しばらく平らな道を進み、また小さな崖にあたれど、屈せずに登る。茂みは深くなり、水の匂いは強くなり、木々の陰が道を隠す。途中で靴を脱ぎ捨て、それでも彼は休まず川べりを辿り、ときには川のなかを歩きもした。
町の賑わいは、もう聞こえない。楽団の演奏さえ届かない。響くのは葉のさざめきと、水の音と、彼の息遣いのみ。
もはやなにも考えてはいなかった。実際には十五分ほどだった道のりが、彼にはずいぶん長い冒険のように感じられた。
――ああ!
重なる枝々の奥に、闇に灯る火のように浮かび上がる。夢中で駆け寄り、心を震わす光景に深く息をついて立ち尽くす。
季節はずれに恥じるようすもなく、堂々と咲き誇るさくらが、彼を待っていた。
そしてそこで、思いがけない再会を、彼は果たした。