新月、花の散る夜に。
二先に席を立ったのはシーユーで、イリューは驚いた。いつもなら彼が食事を終えるくらいにようやくスープに口をつけ、文句をつけて温め直させるのに。
ふしぎに思って見やる。と、今度は不安になる。体調でも崩したのだろうか、妻は朝食に手をつけていない。ミティスもいつもと違うシーユーのようすに戸惑っているようだった。無言で去る彼女のあとを慌てて追い、二人がいなくなると食堂内は静かになったが、居並ぶ使用人たちの顔にもまた、隠し切れない動揺が見えた。
――いいや。いつもの気まぐれかわがままに決まっている。
形だけの夫婦とはいえ三年も一緒に暮らした妻だ、気にならないといえば嘘になる。かといってそれを態度で表すのはどうにも負けたような気がして、イリューは言い聞かせて心を抑えた。
ただのわがまま。そうだ、それ以外に、なにがあるというのだ。
朝食を終えてからは書斎にこもり、昨日までに片付かなかった仕事をこなす。民衆から出された苦情や要望をまとめて議会に提出するのが彼の仕事だ。ときにはトオン島へ渡り、直接王城に訴えることもある。
花送りの宵を催すにあたっても、彼は国王を訪ねなければならなかった。もとはハオン島の儀式とはいえ、すっかりヘオン島の民に馴染んだ祭だ。かつての王を忘れた民衆も、国を愛する気持ちを失ったわけではない。それというのも、人の命に限りはあれど、生まれ育った大地の名前はきっと永久にあると、人は知らず信じているものなのだから。
祭があれば人々は失われた国の名を求めるだろう。そう危惧したコモードの王は、二年前にルスティコの民が開催を唱えたとき、要望を棄却した。むろんだ、あっていいはずがない。
王の返答にイリューも同意した。逆らえるはずもない、そもそも当時の彼には、熱心に開催を説くほどの理由がなかった。なにしろ思い出もなければ親しみさえない。
しかしあとになって、イリューは幾度も王城に足を運び、いよいよ国王の許しを得ることに成功した。その実、それまでは侵略者と非難されていたイリューだったが、このことがあって、ルスティコの民は彼を称え信頼を寄せるようになった。
筆を置き、外に目をやる。楽しそうに行き交う人々の顔を見れば、彼の寂しさもいくらか慰められた。
――ミティスの言うとおりだった。
イリューはここでも彼女に感謝する。彼に助言を与えたのは、ほからぬミティスだった。
どうして彼が開催を強く働きかけたかといえば、建前はいろいろあろうが、本心は彼自身の孤独がためだった。トオン島で生まれコモードの民として育った彼が、どうしてルスティコの人々に慕われようか。生来の地位がなければなおのこと、彼の孤立は、屋敷のなかだけではなかった。
彼になんの力があろうか。故郷では英雄と謳われる父の名も、ここでは忌むべき敵。彼の妻が彼を嫌う理由にも少なからず含まれているに違いない。
その敵意を払拭するに祭はよい機会だと、ミティスは言った。国王の拒絶を覆し、花送りの宵を催すことができたら、きっと民衆は受け入れてくれる、と。
ああ、そのとおりだ。きっともう大丈夫だ。今夜からは、きっとなにもかもが変わるに違いない。
父親が士爵位を得たからといって、もとはイリュー自身、平民の出だ。こんな屋敷に閉じこもっているなど性に合うはずもない。屋敷を抜け出て自由になって、身分の低いものたちとも一緒になって騒ぎまわって。ああ、なんて幸せなことだろう!
純粋に楽しみたい。胸を期待に弾ませ、彼は再び筆を走らせた。が、すぐにまた、それは置かれた。
だれかが戸を叩く。返事をすると、挨拶をして、ミティスが入ってきた。顔にはいつもの明るさがなく、どこか落ち着きなしにうつむいている。
「どうしたんです」
優しく問う。眉にかかる黒い前髪が静かに揺れて、その下で大きな瞳が、不安げに宙を泳いだのが見えた。
ああ、妻――シーユーのことだろう、やはりなにかあったのか。瞬間、得体の知れぬものが胸をよぎったように感ぜられたが、動揺を見取られまいと、彼は平静を取り繕った。
やがてミティスが口を開く。
「恐れながら、奥さまをお見かけはしませんでしたでしょうか」
「‥‥妻を?」
いいや、と首を振れば、ミティスの顔は見るまに色を失い、なにかを言おうとしているのはわかるのに、声にはなっていなかった。
「シーユーがいないのですか」
問いかけに彼女は黙ってうなずく。普段は上向きのきれいな弧を描く眉が、今はしわを寄せ、泣きそうに尻を下げている。この哀れなありさまを見れば、彼女にとって、今までに例のなかった事態だということが言われずともわかった。
「朝もいつもとごようすが違いました。なにを話しかけても上の空といったふうで――ああ、申し訳ございません、ただわたしは奥さまが――」
「いいえ、なにも謝ることなどありません。少し落ち着きましょう」
イリューはミティスに歩み寄ると優しく肩を叩き、椅子を勧めた。それから給仕を呼んで紅茶を用意するように言いつけ、机に広がる書類を片付ける。今日の仕事はもう諦めた。そもそも今日は休日だ、急いでこなしたとて、議会も留守だ。
一つ大きく息をついて、イリューはミティスの前に腰掛けた。
ミティスは畏縮しながらも、促されるまま従った。しばらくしてレモンティーが部屋に届けられると、一口含み、ようやく少しばかり冷静さを取り戻したようだった。
沈黙のなか、窓から昼の暖かい風が吹き込んで、思わず外を見やる。
一年を通して温暖なこの島に、季節は二つしかない。すなわち、花咲きの季節と花待ちの季節だ。花とはさくらのことで、本来は南、ハオン島の花だったが、現在ではこのヘオン島にもそちこちに植樹されている。
今は花咲きの季節。けれどそれも終わりに近づき、今や花などどこにも咲いてはいない。
――ああ、この窓から覗く景色一面にさくらが咲いたなら、どんなに美しかろう。
そう思ったとき、ふと気づく。そういえばあそこに伸びる木はさくらだ。その隣も、反対側、むこうの木もさくらが植えられている。もう散ってしまっているとはいえ、つい近ごろまでは花もあったはずだ。
しかし、思い出せない。この窓から眺めたさくらを、どんなに記憶を辿っても思い出すことができない。
見ていなかったのだ。思えばこの三年ずっと、花など見ていない気がする。咲いていたのだろうけれど、その美しさに酔い浸る余裕などなかったように思う。いいや、なかった。
花など、見ていなかった。この三年、ずっと。
「お嬢さま――奥さまも楽しみにしているとばかり思っていたのです」
ミティスの声に、意識を現実に引き戻す。けれどため息混じりの、思案顔で部屋の隅を見つめる彼女の言葉は、決してイリューのみに向けられたものではなかった。
「お嬢さまはいつも、お祭の夜の思い出を楽しそうにお話しされるんです。だからてっきり、花送りの宵をやれば喜んでくださると思い込んでいたんです」
先ほどは言い直した誤りも、もう気づいていない。ミティスのなかで妻はまだ小さな乙女なのだと、イリューは悟った。
イリューはミティスを、心底哀れに思った。ああ、それで彼女は彼に進言したのか。シーユーのためと言わなかったのは、もし言えば彼は真剣に考えはしないと思ったのだろう。仕方あるまい、こんな夫婦なのだから。
だが建前がどうあれ、結果として民衆は喜んでいる。イリューもだ、彼女は決して間違ってはいない。
――いいや、これも慰めにはなるまい。
紅茶を一気に飲み干し、カップをテーブルに置く。ミティスのカップはまだ半分も減っていなかった。
「話してくださいませんか」
声にミティスが顔を上げる。イリューは自身のカップに新たに紅茶を注ぎ、レモンを絞った。
「お許しください、思い出のことはお嬢さまには口止めされているのです」
「いいえ、今朝のことを、です。妻が食堂を出て行ってからなにがあったのか――まさか、あのまま屋敷から出て行ったわけではないでしょう」
たしかに妻の思い出も気になる、しかしミティスがここまで思いつめるなど、果たしてシーユーはなにを言ったのだろう。最も信頼を寄せる友人に、妻はなにをしたのだろう。
ああ、と小さく呟いて、ミティスはまた少し考えた。やがて、首を横に振る。
「実を申し上げれば、今朝のことばかりではないのです。お嬢さまはここのところ、ずっとなにかを思案されていました」
朝食に手もつけずに食堂を去った女主人を、ミティスは慌てて追った。
シーユーはまっすぐに自室に戻ると、ミティスが追いつく前に扉を閉め鍵をかけてしまった。戸を叩き声をかけようとなんの反応もない。
予備の鍵を持ってこようか。ミティスは悩んだ。しかし拒んでいるからこそのことだと考えれば、無理に立ち入ることは阻まれる。
ミティスはその場で待った。食堂ではまだ朝食が終わらないのだろう、廊下はひどく静かだった。扉に耳を当てれば、室内を女主人が歩き回る足音が聞こえる。
それから、ベッドの軋む音。鼻をかむ音。小さく漏れる声。
泣いている。