さよならの悪意
ただ、別れは嫌だった。だからその前に拒絶した。その気にさえなればいつでも会えたろう、けれど自然と、次第に遠のく距離は魔女にそれを許さない。
もう、会わない。そう決めた。嘘が悪ならば、それはやはり悪意だったのだろう。
「ああ、今日はなんていい日だろうね」
魔女はぽつりと呟いた。
誰もいない。目の前には一つの墓標――綴られた名は、かつての友人のもの。年月が経ち角は取れ、苔色に染まったその石を足元に、魔女は笑う。
「ようやっと、あなたは死んだ」
長い年月を眠り続けた魔女に、今はもう知る人などない。
その奇抜な身なりも周囲に恐れられることもなく、森はいつの間にか小さくなっていた。馬もなしに走る車に、ここではないどこかの景色を見せる小さな箱。どれほど眠っていたかは今や知るところではないが、今までで一等長く眠っていたのだろう。彼女を恐れるものも、もうなかった。
「ホッとした」
花を手向ける。それに花特有の艶やかさはない。
もとは白かったろうに土色に染まったそれは、かつて彼女から貰った日傘の生地だ。鉄製の骨は錆びてなくなった。それでも可憐に見えるように。魔女は最後の魔法をかける。握り締めるとボロボロと落ちて風に舞った。
暖かな陽射しに、少し肌に冷たい風が吹く。本物の花の香りが魔女を取り巻き、小虫が群れて飛ぶ。町の喧騒を離れたその場所に佇む沈黙は、魔女の思考を思う存分巡らせた。
「ようやっと、あなたは死んだ。ホッとしたよ――もう会うこともないんだからね」
わざと笑う。馬鹿な言葉だとはわかってる。何世紀も昔の人なのだ。今日でない過去に亡くなった、それも知っている。
なぜ今更、この口はそんなことを言うだろう。心はそんなことを思うだろう。
魔女自身、不思議でたまらない。
と――見知らぬ初老の神父が、魔女に歩み寄ってきた。柔らかい微笑みは顔に幸福のシワを刻み、静かに開いた唇は優しく魔女に問いかける。
「ご先祖参りですか」
「‥‥いいえ、友人です」
神父は不思議そうに首を傾げた。けれど決して嘲笑ではない笑みを浮かべ、言葉を続ける。
「そうですか。幸せなご友人ですね」
「そうでしょうか」
「そうですとも」
全く当たり前のように頷く。それがどんなにおかしな問答か、魔女は十分に理解している。
笑われる。そう思っていたのに、神父はやはりごく当たり前の来訪者に対するように魔女に言う。
「またいつでも来てください。彼女はとても、寂しがり屋なのです」
――不思議なことを言う。
長い時間のうちに、人間はおかしくなってしまったのだろうか。いいや、この人だけが特別なのか。けれどどうでもよかった。どうせまた、眠りにつく。次に来たときにはこの神父もいないだろう。
「わかった。じゃあ、またいつか来る」
魔女はそう残して、墓地を去った。もう二度と行くこともなかった。
森はなくなった。魔女がいなくなったから。守人のない森は人間たちに切り開かれ、今は町となっている。魔女の伝説もいつしか消えた。魔女はどこに行ったのか。知る人は少ないけれど、きっとこの世にはもういない。
嘘が悪なら、それはやはり悪意だったろう。
神父の言葉で魔女はいよいよ決意を固めた。覚悟を決めた、といったほうが正しいだろうか。
悔しかった。
永久を生きる運命が、自ら選ばなくてはならない死が。どうして時間の流れのままに、この世を去れなかったろう。
また来るよ。
また、来るよ。さよならを言いに――‥‥それは今や、叶わぬ嘘だ。
森の魔女の物語は――またいつか、語る日まで。
―END―