深緑の緋
鬱蒼と繁る葉、地面を彩る苔の匂い。じっとりと体にまとわりつくような空気のなか、少女は進んでいった。
芝を踏み、苔を蹴り。ときには足をとられ転び、あちこちに小さな傷を作って服を泥に染める。けれど少女は決して、立ち止まることも後退することもなかった。
だれかが囁く。それは母の声に似ている。
『森に入ってはいけないよ』
なぜと訊けば、魔女がいるからだと母は言った。
払うように首を左右に振る。声は少し、遠くへ行った。するとまた、別のだれかが囁いた。それは父の声に似ている。
『魔女に関わってはいけない』
なぜと訊けば、恐ろしいヤツだからと父は答えた。つまらないとふてくされると、父は彼女に怒鳴り散らした。耳を塞いで目を閉じる。溢れた涙の撥ねる音で、声は途切れた。
その言い伝えは、少女も知っていた。
どんな願いでも叶えてくれる魔女。かつては何人もの人間が、彼女のもとを訪ねた。けれど魔女とて、なんの代償もなしに望みを叶えるわけではない。
地位。富。‥‥命。
世界中を支配したいと願った領主がいた。誰も逆らえぬ権力と地位を求めた。魔女は願いを叶えたが、領主はそうして手に入れた財産全てを魔女に差し出さなくてはならなくなった。
金持ちになりたいと願った農夫がいた。土など耕さずとも飢えずに暮らせるくらいの金持ちに。魔女は願いを叶えたが、農夫は家から出る自由を奪われた。
魔女は彼らに要求した。
『願いを叶えたら、――‥‥』
彼らが抗うと、魔女は彼らの魂を奪った。そしてそれを、この森に閉じ込めた。
やがて魔女を訪ねるものは誰もいなくなる。その偉大な魔力を、怒りに触れることを、関わることを――人間たちは恐れた。
自分の手に負えぬものなど、所詮願うべきではない。伝説は時を経て、寓話として人々の間で語り継がれるようになった。
けれど少女の両親は信じていた。いいや、彼女の暮らす町の人々は皆、だ。その言い伝えをもつ森を、酷く恐れた。
少女とて恐ろしかった。言い聞かされ育つうち、疑う術をなくす。森から一日中聞こえて途絶えない呻くような音も、幼い彼女の恐怖心を煽った。
魂の悲鳴。祖母はそう言っていた。閉じ込められ何十年何百年とそこに留まる魂が、救いを求めているのだと。
きっと本当なら、彼女もやがては家庭を持ち、子にこう伝えるはずだった。
『森には近付いてはいけない』
なぜと訊かれれば魔女がいるからと答えるだろうし、ふてくされるなら叱りつけたろう。それがこの町に暮らす母親であるし、なんの疑いもない。
何度目だろう、彼女はまた木の根に足を取られた。
視界をなにか、ぼやけたものが覆う。透明なのに先を覆い隠す、それがなんなのか少女にはすぐにわかった。
瞼の裏には、深い緑だけが映る。絵の具のビリジアンと、朱をほんの少し混ぜたような色。手で擦ると少しだけ明瞭になり、大樹に巻きつくアイビーの葉だったことがわかる。同時に、彼女自身、大樹の根元に体を横たえていたことを知る。
無理もない。少女はずっと、走り続けていたのだ。森に入ってからもう二時間になるだろうか。
疲れ果て、その上傷だらけのその身は、彼女の意識から輪郭を奪う。視界に映るものはもちろん、思考回路を巡る情報でさえ、形を成してはいない。
取り留めなく流れ続ける想いは心を不安に包み、ただ一つを求めている。
魔女。
彼女は魔女を探している。
なにを求められても、わたしはそれに答えよう。そう思った。
――急がなくては。
瞼の上からごしごしと目を擦る。けれど動きは鈍く、体は重い。
意思とは裏腹に、背中は大樹の根より離れようとしない。大きく吐いた一息は、彼女を先へと急き立てる。
思い浮かべるのは、母の顔。父の顔。それから町中の人々の、いつもの顔。元気な顔。‥‥元気だった顔。今日の朝にはもうどこにもなかった、幸せな顔。
ごうごうと、耳元を強い風が吹き抜ける。町のほうから吹く風には、炎の熱気が含まれる。木々の間を通り抜け、地鳴りのような大砲の音が響く。
いいや、幻聴だ。ただあまりに強い印象が、彼女の無意識に作用する。耳を塞いでも、それは消えない。
「願いはなんだ?」
耳元で声がした。
甘く透き通る、優しいけれどどこか悲しげな声。
少女はそっと、目を開いた。
「約束を守るなら、叶えてやるぞ」
緋色の、目。
緑を透かす肌。
限りなく黒に近い髪は、月明かりに茶に輝く。
「なんでも聞くわ」
「言ったね」
魔女は頷くと、彼女にその手を差し伸べた。そのどこか不安げな顔は、今にも消えてしまいそうに感ぜられる。
少女はその手を取った。魔女は続けて言う。
「友達が欲しい」
少女は答えた。いいや、答えようとした。けれど乾ききった喉からは声が出なくて、代わりに笑って見せた。
魔女は優しく微笑んで、ふいと小指を動かした。
そのあとのことを、少女は覚えていない。
ただ不思議に月が緋色に輝いていたのを、どうしてか忘れられなかった。