ヒガサ
時の流れに嫌われた魔女は、永遠を生き続ける。よくある話だ。彼女もまた、そんな時の呪いを受けた。
けれど不死とは違う。彼女の生きるは永久の一瞬だけれども、そうしようと思えば命は絶てた。生き続けるのは臆病だからだ。魔女は、自嘲気味に呟いて笑う。誰も聞くものなどない。
彼女は眠ることにした。短い夢をいくつも見た。目が覚めるたび、時代は一世紀も二世紀も過ぎていた。そして忘れる。果たして自分がいつ生まれた存在なのか。いつからそこにいたのか。
どうでもいいことかもしれない。事実、そうだった。
魔女の不思議な力は、その場所に森を作らせた。木々は守るようにその枝を伸ばし、草花は道を隠して人を惑わす。彼女が眠るたび、森は深くなっていく。
いつしか人はその場所を恐れ、こう呼ぶようになる。
“魔女の森”と。
「起きて、スクーパー」
顔に陰がかかり、耳元で声がした。決して幼くはない、けれど大人でもない少女の声。
魔女はそっと目を開く。美しく長い髪の少女がそこにいた。手には、傘。
「雨なんか降ってないよ」
「やあね、日傘よ」
花のレースの白い地は、太陽の陽射しをきらきらと透かす。
「日向ぼっこもいいけれど、こんなところで寝てたらお日様に焼かれちゃうわよ──森とは違うのだから」
くすくすと笑われて、魔女は恥ずかしそうに顔を赤らめた。
昼下がり、町は穏やかな空気に包まれる。少女の支度が済むのを彼女の家の庭先で待ちながら、魔女はいつの間にか眠ってしまっていたのだ。少女は日傘を魔女に差し出し、優しく微笑む。
「せっかく白くて綺麗な肌なのに、勿体無いわ」
魔女は戸惑いながらもそれを受け取った。
――不思議なコ。
人間はいつだって、自分の力の及ばない未知を恐れる。不思議を拒む。言葉で説明できないものを否定する。
魔女という存在はいつだって受け入れられはしないのだ。なのに。
「怖くはないの、ジェニット」
魔女は問う。少女は不思議そうに目をパチパチさせて魔女を見つめた。
「もちろん、怖いわ」
あっけらかんと。答えと態度の辻褄が合わなくて、魔女のほうこそ目を見開いた。少女は続ける。
「怖いわ。だってあなたのこの美貌が、お日様に照らされては赤く塗り潰されてしまうでしょう？」
あまりに的外れなそれは、魔女を笑わせる。少女はなぜ魔女が笑ったのかがわからなくて、眉間にしわを寄せた。
少女が促して、二人は進む。石畳の道、建ち並ぶレンガの家々。青くて高い空はなにも変わらないけれど、かつて魔女が暮らした町の面影は今やない。
すれ違う町人たちは少女に声を掛ける。老若男女を問わず、少女は誰にでも笑顔で返した。
「人気者だな」
「普通よ」
跳ねるように先を行く少女の白いドレスが、魔女には太陽よりも眩しく思えた。思わず目を細め、立ち止まる。気が付いて振り向く少女に、魔女は笑って見せた。
「ごめんなさい」
少女が言う。
「傘、持たせてしまってたわね」
申し訳なさそうに手を伸ばすけれど、魔女は優しく首を横に振って返す。
「いい、持ってる」
「そんなわけにはいかないわ」
「いいんだ」
見てたかった。楽しそうに道を行く少女を。なんの制約もなく足かせもなく、傘はきっとそれには邪魔だ。
いつだったか。いつかも、こんなふうに誰かの背中を見ていたっけ。無邪気にはしゃぐ姿は、どうしてか人を安心させる。そのときの“誰か”はもうこの世にないだろうけれど、面影を持つ者は失われはしない――きっと、いつの時代も。
「あなたは不思議な人ね」
少女が言う。
「あなたの伝説を口にするときは、みんななにかを恐れるように顔を強張らせて森へは行くなと言うわ。だからわたしは、あなたは恐ろしい人なんだと思ってた」
躊躇いのなさは魔女への信頼の表れ。言葉は魔女を悲しい気持ちにさせたけれど、少女の想いは心を救った。それからおかしく思う。
――不思議だなんて、あなたに言われたくはないわ。
少女が魔女のもとを訪ねたのは一月前のことだ。なぜ人々が恐れてやまない森に足を踏み入れたのか、少女は覚えていない。ただ、魔女と友達になる。そんな約束をした。
今までは少女とて、魔女を恐れていたはずだ。
「でも、そんなのは勘違いだったんだわ」
魔女はこんなにも優しい‥‥続けようとしてやめたのは、魔女が嬉しそうに少女の先を駆けたからだ。
「早く、行こう。日が暮れてしまう」
レース模様の影をつけて、魔女は微笑んだ。
どこに向かっていたのか。それはもう、覚えていない。
魔女は目を覚ます。遠い、それは遠い夢を見た。きっとまた長い月日が、年月が過ぎたのだろう。傍らには泥に染まった傘が転がっている。錆付いて折れ曲がっている柄は半分がなく、触れると砂のように崩れてさらに短くなった。
森は一層、深くなっていた。枝と葉の間からこぼれる光に、傘など必要ない。用を成せないその傘を、魔女は触れることもなくただ見つめた。
耳を澄ませる。町は静かだ――‥‥
少女とはそのあとも幾度か会った。けれど少女が大人になったとき、会うのをやめた。少女はたびたび森にやって来たけれど、魔女は彼女を遠のけた。
魔女はいつまでも、若いままだった。
魔女はいつまでも、少女の姿のままだった。
だから友人が大人になったとき、会うのを拒んだ。
友人が魔女を見てなにを思うだろう。時の流れのままに生きる当たり前の己の姿をどう思うだろう。それでも偽りのない友情は彼女を引き止めてくれるだろうか。いいや、この絆自体、もともとは契約だったじゃないか。
町の平和を願った彼女の、魔女への見返り。ただそれだけの繋がり。年を重ねるごと、少女に会うのが怖くなる。
時は万物に平等に降り注ぐはずなのに、この森のこの木々は、この枝は、この葉は、それさえ魔女に届けない。
少女が最後に森を訪ねた日。彼女は日傘を置いていった。若い少女。あの日の少女と同じ姿で――いや、違う。
知ってる、少女の娘だ。
娘は日傘を置いて、泣きながら森を去っていった。少女との永遠の別れを、魔女は悟った。
魔女はまた、眠りについた。
朽ちた日傘を抱きしめて――あの娘が見たらきっと笑うだろう。いいや、あの娘さえもう、きっと。
こんなふうにしがみつくのは好きじゃあない。あの日の少女のようになにものにも囚われず、自由にいられたら。それにはきっと、この傘は邪魔だ。けれど手放せない。永遠の一瞬を生きるには、少しの支えが欲しかった。
想いを重ね、日を重ね。降る雨は雫ばかりじゃない。光という名の、時という名の。
なにものも森には降らないけれど、深緑の緋が彼女に注ぐ。
