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鬼と英雄 下


 英雄が手を伸ばす。鬼は逃げる。体育館のなかを、白い面と赤いキャップが走り回る。その隙にアツエは体育館をあとにして、校舎へと逃げ込んだ。
 ――助かった。
 階段を上がり、踊り場のガラスのない窓から体育館を見やる。駆け回る足音がまだ響いている。二人はまだ、あのなかだ。
 運がいい。バクバクと打つ心臓を小刻みに震える両手で静める。冷たい汗が背中を伝う。
 大丈夫、助かった。彼女は深く息をつき、また階段を上がっていった。

 三階の家庭科室の窓からは、学校のすぐわきを通る公道が見渡せる。二車線の、普段から交通量の少ない道路は、この時間は車の通りがまったくない。町の明かりもところどころに残すだけになった。
 元家庭科室のこの教室に、今はコンロの一つもない。ただ大きな実習テーブルだけがいくつか、規則正しく並んでいるだけだ。
「なんにもないなぁ」
 エミリが独り言つ。目を閉じれば、懐かしい情景をありありと思い出すことができた。いつもした焦げ臭い匂いだとか、窓際に並べられたいくつものミシン、奥の準備室にはマネキンがあって、エプロンだとかワンピースだとか、家庭科クラブの子たちの作品がなにかしらあった。
 エミリも六年生のとき、家庭科クラブに所属していた。青いブラウスを作って、襟元に花の刺繍をして。よくできたと、先生が飾ってくれたっけ。
 準備室へと進む。ここなら廊下とも直結しているし、家庭科室、廊下、どちらから鬼が来ても逃げるに十分だ。
 隠れる場所なんてもはやない。いかに鬼から離れるか、接近したときにいかにうまく逃げるか、それが勝負の分かれ目だ。
 と、背後で物音がして、エミリはすぐさま振り返った。背中を冷たいものが伝う。知らず拳を握り、音の方向をぎろりと睨みつける。
「――おれだよ、エミリ」
 聞きなれた、優しい声がした。
 やがて彼の姿を認めると、彼女はやっと安堵した。栗色の、男性にしてはやや長めの髪。頭一つぶん見上げる身長差、彼女を見つめる茶色い瞳に白い肌。女性的な顔立ちはいつだって彼女の自慢で、同時に劣等感を抱かせもした。
「レオ。無事に逃げられたみたいね」
「見てたのか?」
「ええ、アツエと」
 ふふとエミリが微笑むと、レオも肩をすくめて笑う。
「ちょっと可哀想だったかな、あの鬼には」
 言いながら、ポケットからタバコを取り出す。一本くわえて慣れた手つきで火をつけ、窓際の真下に腰を下ろした。
「鬼と英雄、か。懐かしいな」
 呟くレオの左隣に、エミリも並んで座る。彼の肩に頭を預けるにはお互いの長い髪が少し邪魔だった。手持ち無沙汰にライターをいじる彼の左手に、そっと触れる。
 温かい。昔となにも変わらない、彼の体温。
 タバコの火が残像を残す暗闇のなか、レオは構わずに話を続ける。
「考えてたんだけどさ、エミリ。もしかしたらこれは、こういうことかもしれない」
 ふうと白い煙を吐きながら、レオが自説を語る。
「鬼というのは三十年前にビーカーの赤い水を飲んでしまった先生。それから英雄というのは、体育館ステージの天井に住んでいる白い目の子ども――彼は守り神なんだって近所のガキが言ってた」
 学校の守り神。彼らの在学中には聞かれなかった噂だ。なのに今さら守り神だといわれてもエミリは腑に落ちなかったが、レオは楽しそうに思考に世界を広げていく。
 英雄が持つその証というのは、真っ白なハリセンだといわれている。これが子どもだとされるゆえんなのか、もしくは子どもだからこういう設定になったのか。ハリセンだなど、叩かれたら痛いが怪我をするものではない。
 しかし鬼には恐ろしいものらしい。レオは、ひょっとしたらこのハリセンに経でも書かれているんじゃないかと考えた。これで叩くと鬼は一時的に弱まる。その隙に鬼の面を奪う。
 鬼のかぶる面がはずされたとき、鬼は人間に戻るのだ。
「でも鬼は逃げ続ける。だから英雄も追い続ける――でね、彼らの追いかけっこがいつしか子どもたちの遊びとなるのだけど、だれもその意味など理解していない」
 実は恐ろしい遊びだとも知らずにね、と続けようとして、彼はやめた。
 目が合った。目の前、廊下と繋がる引き戸の隙間から、面の下の二つの目が彼らを見ている。
「見つけた」

 図書室がこんなに広いものだったなんてと、セイタは驚いた。例によってこの教室もなにもない、空っぽだった。
 図工室でサオリが捕まってしまったのを最後にチヒロともはぐれた。無我夢中で走って、たぶん彼もそうだろう、以後だれとも合っていない。
 時計を見る。もうすぐ、あと五分で十二時だ。体がほてりシャツを扇ぐと、汗で湿っていて気持ちが悪かった。
 この図書室の奥にはもう一つ、小さな部屋がある。書物整理のためのもので、この部屋は階段と直結しているから、隠れるにも逃げるにも都合がいい。セイタはそこで休むことにした。
 ドアの窓から覗き、音を立てぬよう、慎重に開ける。だれもいない。そう思ったときだった。
 足元から小さな影がスッと伸びてきた。
 思わず悲鳴を上げそうになって押し殺す。違う、鬼ではない。
「‥‥なんだ、アッチか」
 肩で息をしながら。小さくて見えなかったが先客がいた。
 黒い短い髪に、セイタの胸ほどまでの小柄な体。彼の登場に彼女こそそうとうに驚いたのだろう、泣きそうに潤ませた瞳がまっすぐに彼を見つめる。
「おどかさないでよ」
「無理言うなよ」
 ずれたメガネを人差し指で押し戻しながら、セイタは額の汗を拭った。やがて震えも落ち着くと、深呼吸して腰を下ろした。
 コンクリートの床は冷たい。
「セイタ、ずいぶん汗びっしょりね」
「汗っかきなんだよ」
「華奢なのに」
 彼の腕を掴みながらアツエが言う。セイタは昔からこうだった。クラスで一番背が高いのに、体重は女子より軽い。今は体重くらいはさすがにそこそこあるだろうけれど、握ったら折れてしまうのではないかと不安になるほど、肉がない。
 これで高校は柔道で推薦を取ったというのだから、仲間はみんな驚いた。大学でも続けているという。
 メガネをはずし、レンズを拭う。汚れているわけでも曇っているわけでもなかったけれど、その実、彼は女性と二人というのが得意ではない。たとえ気心の知れている彼女でも、だ。
 アツエも心得ていたからしばらくは話しかけていたが、次第に話題もなくなってきた。なんとなしに漂う気まずい雰囲気に、沈黙は重く部屋を包む。
 やがてセイタが立ち上がった。
「おれ、行くよ」
「うん」
 止める理由もない。図書室へ引き返す彼を、アツエは座りながら見送った。
 ――一緒に行けばよかった。
 その直後、足音を忍ばせ、だれかが階段を下りてきた。図書室の奥、書物整理のための部屋に続く細い階段を、ひたり、ひたりと。
 アツエは気付かなかった。気付いて顔を上げたときには、身動きもできなかった。
 白い狐の面が、彼女を見下ろしていた。

 ダメだなぁ。
 もはや走ることも忘れ、とぼとぼと廊下を歩きながら、セイタは物思いに耽っていた。
 本当はもっと話したいのに。彼女と一緒にいたいのに。昔からそうだった、せめて彼女の前でだけでも普通に話せたら。
 いいや、でももう無駄だ。なぜなら、彼女にはユキトがいる。知っている、ユキトが彼女を特別に思っていること、彼女も彼を意識し始めていること。
 ただでさえ女性に不慣れな彼だ、邪魔をしてまで彼女に近付くなど到底できやしない。
 遠くでサイレンのような音がして、窓だったはずの吹き抜きから外を眺める。柔らかい夜風が木々を揺らした。並ぶ校舎のあいだから、なにか、赤い光が見えた気がした。
 なんとなく、胸騒ぎがした。
 と、ふっと目の前に影が現れて、彼は身構えた。明るいほうを見ていたために、廊下の闇に慣れるまでに時間を要した。
 やがて見えてきたのは赤いキャップに英雄の証――白いハリセン。
 逃げようとしている。セイタはそのうしろ姿を確認すると、すぐに駆け出した。
 英雄だ。英雄を捕まえなくては。
 相手も彼に気付いている。暗い廊下を、二人は全力で走る。セイタのほうが速い、日頃から体を鍛えているせいだろうか。
 デニムのジャケット、黒いジーパン。身長はセイタより半頭身ほど小さく、帽子から覗く短髪はほんのり茶色い。
 それがだれだか、すぐにわかった。
「ユキト!」
 叫ぶと同時に捕まえた。彼らは立ち止まり互いに息を切らせ、セイタはすぐさま、英雄――ユキトからキャップとハリセンを奪った。ユキトが小さく舌打ちする。
「最後くらい勝ってやろうと思ったのに」
「残念でした」
 はは、と舌を出して笑い、セイタは得意げに宣言した。
「じゃ、今からおれが英雄な」
「あっ」
 と、階段から影が現れ、愛らしい声が小さく響いた。
 彼らは見下ろした。そこには白い狐の面をかぶった小さな鬼が呆然と立っていた。
 ついてないと思ったろう。よりにもよって、英雄に出くわしてしまうなど。
 鬼はすぐさま逃げようとした。が、英雄がセイタとなれば、そう簡単に逃げられるはずもない。小さな鬼は階段を駆け下り、一階の廊下を全力で疾走したけれど、セイタはすぐに〝彼女〟を捕まえることができた。
「‥‥ずるい!」
「ずるいもんか」
 鬼は半ば意地になりながら面を押さえた。が、抵抗も虚しく――はずされようとしたそのときだった。
 各々がポケットにつっこんだ携帯が鳴り出した。一定の時間鳴り続け、やがて止まる。メールが来たらしい。二人を追ってきたユキトが確認しようとしたが、それより早く、足音と叫び声が響いた。
「やばい、警察が来た。逃げるぞ!」
 鬼から逃げるよりも必死に、外を指差しながら、チヒロが走ってきた。


 七人は裏門から出た。教員用の駐車スペースだった場所には、大きなクレーンやショベルカーが並んでいる。明日から始まる、学校の取り壊し工事のためだ。まずは植木から切り倒されると聞いている。
 しばらく走り続け、裏山に上り学校を見下ろす。パトカーが数台サイレンを鳴らしながら停まっているのが見えた。夜間に廃校で騒ぐ輩を、近所の住民が通報したのだろう。
「楽しかったね」
 鬼の面を取りセイタに押し付けながら、アツエが伸びをした。
「わたしの勝ち」
「ばかいえ、おれはちゃんと捕まえただろ」
「面を取らなかったからダメ」
 べ、と舌を出すアツエに、セイタは黙り込んで少しうつむく。無邪気なそれこそが彼を困らせているのを、アツエは知らない。
 傍らで笑いを堪えるチヒロを、セイタはぎろりと睨みつけた。
「わたし、ほとんどずっと鬼だったわ」
 サオリが座り込むと、つられて全員が腰を下ろす。一人残らず汗だくになっていて、サオリとエミリはメイクが崩れたと顔を覆う。アツエは開き直って、簡単に汗を拭うだけにした。
「でさ、エミリ、さっきの続きなんだけど」
 乾いた土の上に大の字に寝そべりながら、レオが尋ねる。
「おもしろいと思わない? こういう設定で一つ、なにか書いてみようかな」
「ありきたりといえなくもないかな」
「手厳しいな」
 率直な意見にレオは苦笑した。サオリがなんの話と尋ねると、レオは本になるまでのお楽しみだと笑って、タバコに火をつけた。
 鬼と英雄ごっこ。
 彼らが小学校のときによくやった遊びだ。普通の鬼ゴッコに加え、英雄を選出し、ほかは民衆と呼ぶ。
 鬼は民衆を追い、捕まえたら交代する。民衆は英雄を追い、捕まえられたら交代する。そして英雄は鬼を追い、捕まえて面をはずしたらゲーム終了、英雄の勝ちだ。
 時間内に捕まえられなかった場合は鬼の勝ちになる。これを考案したのはチヒロだった。
「やっぱり女は不利だよ、身体能力が断然に違うもの」
 サオリが不満げに言って、チヒロが笑いながらセイタをつつく。やれやれといったように、セイタは肩をすくめた。
「じゃあやっぱり、アッチの勝ち、だな」

 それきり、しばらくだれもなにも言わなかった。
 生温かい風が彼らを包む。木々がさざめいて、夜の鳥が鳴いた。
 月影が、ふわり、ふわりと落ちた。
 ユキトはポケットからタバコを取り出した。ビニールをはずし、一本くわえて。火をつけようとしたけれど、慣れないせいかうまくいかない。
 見かねてアツエが手を伸ばした。
「未成年」
「もう二十歳だよ」
 時計を見る。十二時半だった。
「ホントだ。おめでとう」
 火をつける。ジッと赤く燃えるタバコ。ユキトは少し吸って、‥‥むせて咳き込んだ。
 一斉に笑い出す。それもしばらくすると絶え、また静寂が訪れた。
 ――さよなら、学校。
 たぶん全員が、同じ言葉を繰り返していた。

   了
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