鬼と英雄 上
ひどく窮屈に感じた。
あのころは余裕だった。ああ、自分も大人になったんだな。そう思うと寂しくもあった。
時間など止まってしまえばいい。戻ってしまえばいい。明日など来なくていい。
デニムのジャケットのポケットを探る。タバコの箱とライターが納まっているはずだ。どちらも未使用未開封なのは、すべてが無事に終わったときの仕上げにしたいと思ったからだ。
明日で、彼は二十歳になる。
「ああ、ちくしょう」
ぼそりと独り言ちる。本来なら避難具が入っているはずの箱のなかで、声はほんの少しだけ響いてすぐに消えた。
四階、音楽室の片隅に置かれた箱。以前は鍵がかかっていたけれど、今はもう壊されてしまっている。隠れるためにいちいち出さなくてはいけなかった避難具もなくなっていた。
暗い箱のなか。静まり返った夜の校舎内。耳を澄ますと、遠くから足音が近付いてくるのが聞こえた。
ひたり、ひたり――鬼だ。
息を潜めた。大丈夫、今回だってきっと見つからない、これまで一度だって、鬼がここを見つけたことはなかった。
早くどこかへ行ってしまえ。彼は鬼が通り過ぎるのをじっと待った。
近い。教室内に鬼はいる。ひたり、ひたりと足を忍ばせ、隠れている獲物を狙う。カタン、カタンと、木製のロッカーを順に開け閉めする音が響く。続いてパン、と掃除用具入れを開ける音、併設された準備室のドアを開く音。鬼は準備室も丹念に調べているようだった。
やがて戻ってきた。ドアの前でしばらく佇んでいたように思う。彼は早く出て行け、と心底願った。
鬼が再び歩き出す。そう、そうだ。そのまま教室を出て行け。彼の心臓の高鳴りは、鬼にも聞こえるんじゃないかと思うくらい強く打っていた。
ひたり、ひたりと、足音が遠のく。彼は――安堵した。
と、突然、箱のなかに光が差し込んだ。
冷たい汗が全身から噴き出す。
「‥‥見つけた」
白い狐の面をかぶった〝鬼〟が、彼を見下ろしていた。
閉鎖されてから数年たった小学校は、人の出入りを禁じられ、しかしたびたび忍び込んで暴れる輩のためにか、すっかり荒れ果ててしまっていた。
割られたガラスは危ないと、窓はすべて取り外された。お陰で自由に入れるようになった鳥獣たちが巣を構えるようになり、あちこちに粗相をした形跡が残っている。
もう水の出ない水道場にはだれかのタバコの吸殻。排水口が灰皿代わりにされている。壁にはスプレーで落書きがされて、およそ学校には似つかわしくない、卑猥な言葉がでかでかと並んでいた。
彼らもまた、侵入者だった。
七人。かつてこの学び舎でともに六年を過ごした仲間だ。卒業してもう八年になるが、付き合いは今も続いていた。
そして今夜。明日に誕生日を控えた青年――ユキトの呼びかけで、彼らは懐かしい母校に集まったのだった。
が、今、だれがどこにいるのか。学校のどこかにいることはわかっているけれど、把握はできなかった。
「ああ、あなただったのね」
階段で鉢合わせ、アツエとエミリは互いに胸を撫で下ろした。
「鬼かと思ってドキドキしちゃった」
「わたしも」
ふふ、と笑い合う。けれどすぐにやめ、周囲に気を払いながら近くの教室に身を隠した。
「みんな、今どこにいるのかしら」
アツエが言えばエミリは首を振る。くるくる巻かれた長い茶色い髪がふるふると揺れた。
「でも隠れる場所なんてそう多くないよ、机もないし、体育館も行ったけど倉庫は空っぽになってた」
真っ黒な瞳を泣きそうに潤ませて、エミリが答える。
なにもない。この学校には、彼らが慣れ親しんだものなどなにも残っていない。机のない教室は、どうにも違和感がある。代わりに残された心無い落書きは、彼らの思い出まで塗りつぶしてしまうようにも思えた。
もともとは窓だったはずの吹き抜きから月影がきらきらと降る。アツエの耳下で揃えた短い黒髪が光を跳ねる。頭半分の身長差を見下ろしながら、エミリは彼女の髪を撫でた。
「アッチは相変わらず小さいのね」
「大きなお世話!」
ぷう、と頬を膨らせる。エミリがくすくすと笑った。
アツエは昔から、背の順で一番前を譲ったことがなかった。エミリだって決して長身ではないのだけれど、並ぶと大きく見える。恐らく父親譲りなのだけれど、アツエはそれがコンプレックスだった。
「お姉ちゃんは背、高いのにな」
床に座り込み、のの字を書く。膝に顔をうずめるとなおさらに小さく見えたけれど、エミリは言わなかった。
風が生暖かい。間もなく訪れる春を報せているように思える。
と、階段から大きな足音が響いた。二人は慌ててドアに隠れ、息を潜める。
上の階からだれかが勢いよく下りてきた。二人だ、二人いる。先を逃げる者は廊下に出て、二人のいる教室の前を駆け抜けていった。うしろ姿が少し見えて、エミリは小さく声を上げる。
続けて、あとを追うのは――鬼だ。二人は体を硬直させ、しばし息を止めさえした。かぶった白い狐の面からは、肩につくかつかないかの明るい栗色の髪が覗く。華奢な足がちらりと見えた。鬼は先の人物を追って走り去ってしまったが、きっと追いつけないだろう。
二人の姿が見えなくなったことを確認して、アツエが深く息を吐いた。エミリも小さく伸びをして、思案顔で言う。
「逃げてたの、レオだった」
「心配?」
からかうようにアツエが言う。エミリとレオ。二人は幼馴染だが、昔からそれ以上の想いを互いに抱いていることを、アツエは知っていた。いいや、アツエだけじゃない。仲間はみんな知っている。
そうして笑ってから、溜息をつく。
「そんなこと気にしてたらあなたが捕まるよ。そろそろ行きましょう」
二階、図工室の片隅に、チヒロとセイタはいた。ドアをきっちりと閉めれば、男性二人なら鬼にも対抗できるかもしれない。
「これはずるいかな」
汗を拭いながらチヒロが笑う。
「だれなんだろうな、鬼って」
「さあ」
問いかけに首をかしげながらセイタも顔を手で仰ぐ。逃げ回ったために、全身が汗でびっしょり濡れていた。
この図工室もまた、がらんとしていた。なにもない。かつては大きな乾燥棚があり、児童の作品を保管されていて、いたずら好きなチヒロなど、忍び込んではだれかの絵に落書きをしたものだった。もちろんこっぴどく叱られたけれど、たいがいそのとばっちりをセイタも受けた。
二人は七人のなかでも特に仲がいい。新しいことを思いつくのはいつもチヒロで、セイタはそれをうまくこなすことに長けていた。いたずらは決して褒められることではないけれど、陽気な彼らはいつもクラスのムードメーカーだった。
なにもない図工室。絵の具の匂いだけが染み付いて残っている。二人にはそれが救いに思えた。
と、だれかがドアを叩いた。慌てて押さえつけて見上げる。と、覗き窓から栗色の髪の女性――サオリが見下ろしていた。
「開けてよ、わたしも休ませて」
小さな声で、息を切らせながら言う。白い肌に印象的な黒い瞳。紅潮させた頬は、きっと走り回ったせいだろう。
二人は彼女を迎え入れた。ドアを閉めると、サオリはよろよろと座り込む。
「よかった。もうダメかと思った」
「鬼が近くにいるのか」
セイタが問うと彼女は頷いた。彼らは顔を見合わせ、緊張に顔を強張らせた。
「でもどこかに行っちゃったみたい。どうしてだろ――もしかしたら」
彼女が言いかけたとき、ドアが思い切り叩かれて、三人は跳ね飛ばされた。振り返ると覗き窓から見える廊下の暗闇に、白い狐の面が浮かんでいる。
――鬼だ。
サオリが悲鳴を上げる。チヒロとセイタが慌てて押さえるドアを、鬼はガンガンと、狂ったように叩き続ける。ドアを壊されるのではないかと恐怖しながら、三人は必死で押さえた。
しばらく。十秒ほどそうしていて、やがて突然静かになった。諦めたか。唾を飲み、恐る恐る確認すると、鬼の姿はなかった。
サオリが泣きそうに震えながらセイタの袖を掴む。
「よかった‥‥」
心臓が高鳴る。乱れる呼吸に、三人は肩を上下させる。
確認しながらチヒロがドアを開けた。死角に隠れているかもしれない、ドアを開けたらみんな散り散りに走れと言うと、セイタとサオリは頷いた。
さっきの騒音が嘘のように廊下は静まっていた。三人が走り出そうとすると足元から猫が飛び出して、思わず立ち止まる。猫はそのまま、隣の部屋へと消えていった。図工準備室、と書かれている。
「心臓に悪い」
「そうだね」
サオリの呟きにだれかが肩を叩く。
‥‥だれだ? セイタもチヒロも、彼女の前にいる。小さく悲鳴を上げ、サオリはゆっくりと振り返った。
浮かび上がる白い狐の面。
「捕まえた」
この学校にはさまざまな怪談が言い伝えられていた。よくある七不思議というものだ。
たとえば、七つ目のドア、というものがある。トイレの目隠し板の裏に、あるはずのないドアが現れるというものだ。そこには魔界の住人が潜んでいて、ときどき現れては子どもを攫うのだという。
また、理科室のビーカー。空っぽのはずなのに、満月の夜になると赤い水で満たされ、それを飲むと鬼になってしまうという伝説だ。三十年前に実際に鬼になっていなくなってしまった先生がいるという噂まである。
最も新しい怪談は廃校になる直前に生まれた。体育館のステージの天井に、白い目の子どもが住んでいるというものだ。噂が語られるようになったころには彼女はもう卒業していたが、いつだったか、ユキトがそんな話をしていたのを思い出した。
アツエは一人、体育館へ来ていた。エミリとはいつのまにかはぐれてしまい、鬼にも遭遇したがなんとか逃げてきた。
無闇に足音が響いた。積もった埃に、きっと仲間のだれかのものだろう、新しい足跡がいくつも残されている。見上げる窓枠がコケで覆われているのは、年月の流れを思わせた。
アツエはゆっくりとステージへ歩み寄った。昔はたくさんの照明器具があったり校章入りの教壇があったりしたが、それすら今はない。ステージへ上がるための階段も取り払われていた。勢いをつけてよじ登ると、埃が舞い、服が真っ黒になった。
「ああ、最悪」
独り言ち、汚れを払う。それから振り返り、いつもより高い視線で体育館を見渡した。
「卒業式以来だね」
呟いたとき、窓枠に巣食った鳥がはばたいて、彼女を驚かせた。唾を飲み、一瞬強く打った心臓を押さえつけて、彼女はゆっくりと後退する。
天井を見上げる。だれもいない――当然だ。なんとなく、がっかりした。最後にあの怪談にくらい、出会いたかったわ。
ステージ袖に設置された放送室に移動する。しばらくここで休もう。足がふらついた。
時計を見る。十一時半。ああ、もうこんな時間か。
あと三十分で明日。明日だ。明日には、すべてが終わる。
「なんでだろうな」
一人、肩を抱く。涙が溢れた。どうしてだろう、この虚しさは。切なさは。なんとも言い表せない、寂寥感は。
「なんでもう、終わりなのだろう」
避けようもない、それ。守りたくても彼女には、彼女たちには無理だ。なすがままに任せるしかない。
それが歯がゆい。
白い狐の面が夜闇を彷徨う。呼吸を荒げ、教室を一つ一つ、丹念に調べていく。耳を澄ませ、些細な音にも振り返る。
鬼は獲物を探していた。決して逃しはしない。埃の積もった床に、汗が滴り落ちる。
と、ふと思い出した。そうだ、まだあそこを探していない。鬼は踵を返し、階段を下って校舎を出た。中庭を横切る渡り廊下を進み、向かう先は、――体育館。
中庭はまるで雑木林のようになっていた。木々は手入れもされず自由に枝を伸ばし、草花は春を待って、つぼみを大きく膨らせている。若い芽の匂いが鼻をついた。
体育館の鉄扉は人一人がちょうど通れるくらいに開かれていた。いる。予測通りだ。鬼は一人笑んだ。
静かに、足音を忍ばせて入り込む。足跡の残る埃だらけの床を眺めて、鬼の視線はまっすぐ、ステージ、いや、放送室へ向けられた。
目が、合った。
鬼は嬉々として走り出す。一方、放送室にいたアツエも動き出した。慌てて飛び出してきて、よじ登ろうとする鬼を見てステージから飛び降りる。けれど鬼のほうが身軽で、すぐさまあとを追ってきた。
出口にもう少しで届く。が、鬼ももう少しで追いつく。
もうダメだ。
アツエが半ば諦めたとき、ふっと出口が塞がれた。
鬼がたじろぐ。
赤いキャップ。手にはその証を持って、英雄がそこにいた。