HOMENOVEL>新月、花の散る夜に。

新月、花の散る夜に。

   七

 どうして。
 問いに、イリューは答えられない。
「――ごめんなさい」
 組んだ両腕に顔をうずめたまま、シーユーが言った。突然の謝罪に、イリューはたじろぐ。
「きみが謝ることなんか」
「わかってはいるのよ、あなたを責めたって、なにも戻らない」
 ぽつり、ぽつりと。膝を抱えうつむいたまま、シーユーは幾度も繰り返した。
 ごめんなさい、と。
 傍らを流れる川の音が、ひどくうるさく感じる。風にさくらの降る音が、やかましく思える。耳の奥できいんと響く静かなものが、彼に問いかける。答えは、出ない。
 ――なんで謝るんだ?
 凛として強く見えた肩。棘をあらわに、夫を拒絶した唇。近寄りがたい冷徹な美貌。
 そのどれもが、今は力をなくしている。いいや、そのどれもが、実はただの虚栄だったのかもしれないと、イリューは思い始めた。
 だって目の前の少女は、あんまり、小さい。はかない、弱い。
 こんな妻を、彼は知らない。見たことがない。
「だけどだれかを責めずにはいられなかった。拒まずにはいられなかった。なにもかも嫌いになりたかった」
 言い聞かせるように、唱えるように。
「‥‥嫌いになりたかった」
 小さく、繰り返す。
 胸が締めつけられるのを感じた。息を潜め、彼女の言葉に耳を澄ませる。一言も聞き漏らしたくはなかった。
「わたし、なにもかも失ったわ、あの戦争で。お父さまもお母さまも、家も地位も、懐かしいものはぜんぶ。自由さえも、‥‥ね」
 ため息をつく。すっかり疲れきっているようだ。致し方ない、朝から家を出て、ずっとここにいたのだから。今日だけじゃあない、今までもずっと、戦が終わってからも、彼女はコモードに抗い続けてきた。たった一人で。
 閉じたそのまぶたの裏に、懐かしい景色を見ているのかもしれない。
 袖口をしっかと握る手は、失った大事なものの思い出を抱きしめているのかもしれない。
 彼女からなにもかも取り上げたのは――疑いなく、コモードだった。
「せめて、この地を離れたくはなかった」
 シーユーはまた、静かに泣いた。
 結婚をしてもルスティコを離れないというのは、彼女が出した条件の一つだった。そのために、イリューはこの地、ヘオン島に縁付くことになった。
 当時まで、男と生まれたからには家督を継ぐのが当然と育ってきたイリューには、生まれ育った家を離れることは抵抗のあることだった。けれど今になれば、自分の不満など小さなものだったと思い知る。
 彼女が謝ることなんかない。それでも彼女はまた繰り返す。ごめんなさい、と。イリューは静かに首を振った。
 棘が、はらはらと落ちていく。零れるように、張りつめたものがほどけていく。
 すっかり静かになった夜空に、星はきらきらと瞬く。
「それで――その、男の子、は?」
 しばし続いた沈黙を破って尋ねると、妻がわずかに顔を上げた。
「亡くなったそうよ」
 ――え?
 一瞬、鼓動がやむ。聞いてはいけないことを聞いてしまったような気がした。どう返していいかわからずに、彼は黙り込む。ひどく冷たい緊張がのどの奥を通り過ぎた。
 が、続いたのは沈黙ではなく、彼女の言葉だった。
「だいぶあとになって知ったの」
 ささやきほどの小さな声だった。けれど、意外なほどにさらりと、彼女は言った。ふふ、と、懐かしんでさえいるかのように、シーユーが小さく笑う。
「だけど悔しかったから、わたしだけでも約束を守ってやろうと思ったの。そうしたらあなたが来るんだもの、‥‥驚いたわ」
「それで隠れてたのか」
 とたん、恥ずかしくなる。ひょっとすると先ほどの独り言も、一人で食べていた夕食のようすも、見られていたのだろうか。
 妻は答えなかった。代わりに、いじわるに問うた。
「気になったの、彼のこと?」
 組んだままの腕の隙間から、きれいな右目が覗いている。イリューはごまかしにそっぽを向き、小さく咳払いをした。
 涼やかな風が二人を包む。花びらがくるくると回るのを、イリューは見た。
 見上げる。さくらはもう散りきってしまいそうだった。先ほどまで煌々と光を放っていたとは思えないほど、満開だった花は魔法か幻かと思うほど、大樹は本来の季節に合わせた姿に近づいている。
 緑の、葉だけの姿に。
「平民の子よ。だから、普段は会えなかった。身分が違いすぎたもの」
 シーユーがゆっくりと顔を上げ、まるで歌を口ずさむように話し始める。イリューは視線を彼女へと戻した。うっとりとした悲しい瞳は、どこか遠くを眺めている。
 懐かしい、幼いころの友人の思い出。
「でもそれでも好きだった。あのときは、いつか大人になったら、この国から逃げてでも彼と結婚したいって思ってたわ」
 愛らしい、少女らしい願望。叶わなかった夢。
「地位も家族もなにもかも捨てて――とてもロマンティックで、考えるだけでドキドキして、いつかそんな日が来たらどんなに幸せかと思ってた。なのに、今はまるで逆ね」
 なんでこうなっちゃったんだろうなあ、と自嘲気味に笑って、深いため息をつく。
 捨てようと思ったものはまっ先になくした。離れようと思った土地に固執した。
「みっともないわよね、思い出にしがみついちゃって。笑っていいのよ」
「笑わないよ」
 みっともないとも思わない。むしろ、イリューは自分の浅はかさを悔いていた。
 彼女がイリューを認めないのは、彼が生来の貴族ではないからだと思い込んでいた。違った。いいや、彼女の言葉を素直に受け止めていれば、わかったはずだ。
 最初の夜、彼をめかし人形と罵った。「だれかの言いなりになって好きでもない相手と結婚してしまうような、ただのお人形さん」――そう、妻は言った。彼女は今まで一度だって、彼の生まれの卑しさを口にしたことはなかった。
 彼女の心情を思いやることは、難しくはなかったはずだ。
 たった一つの思い出が、花送りの宵が、かつての恋人との約束が、こうもたやすく固い殻を壊していく。いや、殻ではない、壁だ。たった一人、イリューと彼女とのあいだにだけあった、二人を隔てていただけの壁だ。
 いつのまにか、二人で築いていた。それが、崩れた。
 彼女を頑なにしていたのは、なんだったのだろうか。
「人形遊びの趣味は、ないんだ」
 ぽつりと呟いた言葉に、シーユーが彼を振り返る。まっすぐに見つめる視線が妙に恥ずかしくて、イリューはとっさに目を逸らした。
 うまく、言葉を繋げられない。
「最初の夜に、言ったろう。きみは、きみ自身も人形だ、と」
「‥‥まだそんなこと覚えてたの?」
「そんなことって」
 やや、呆れる。これまで女性に言われた言葉で、これほど衝撃を受けたことはなかったのに。けれど彼女の顔を見れば、彼女自身も忘れたわけではないと、なんとなしに知れた。
 彼女の瞳は、続く言葉を待っていた。
「もしきみが人形だったら、ぼくはきみを愛せない」
 言ったとたん、円らなそれが曇るのを見た。けれどイリューは、今度は目を逸らさずに、真剣に彼女に向き合った。
 きっと、伝わる。
「でも、もしもきみがぼくに期待してくれるなら、ぼくは――」
「期待、って?」
 シーユーが心細げに問いを呟く。瞳が、不安に泣き出しそうになっている。
「ぼくがいつかきみを愛せるようになると信じてくれるなら」
 イリューが言い切ったとき、短い沈黙が流れた。
 愛する。
 地位も富みも美貌も備えたこの夫婦に唯一足りなかったもの。
 口にしたとたん、耳にしたとたん、互いの心臓が大きく高鳴った。
 気づけばイリューは、妻の手に自分の手を重ねていた。先ほどまで、触れることをあんなにためらっていたのに。
「‥‥もしも?」
 声が震える。けれど今までの震えとは、なにもかもが違う。
 期待している。彼女自身はもちろん、イリューにも、それは伝わった。
「もしもきみが期待してくれるなら、ぼくはきみを、」
 早鐘を打つ、心臓。
 見つめ合う視線は、もう逸らすことはできない。
 こんなふうに思うだなんて、昨日までならきっと考えられなかった。いいや、本当はずっと思っていた。
 ――人形は期待なんかしない。幸せなど、愛など。
「きみを永遠に愛し続ける。きみを永遠に、幸せにしてみせる」

 ――あんまり浅はかな誓いだろうか。
 三年も一緒にいながらろくな会話もせずにいたというのに。それが彼女の過去を知って、突然、愛するだなんて。
 同情だと、思われるだろうか。
「‥‥同情ならいらないわ」
「違う」
 夜空から、冷たい空気が落ちてくる。けれど寒いとは感じなかった。
 違う。同情ではないと、言い切れる。
「いつか愛し合うことも叶うと、ぼくは思っていた」
 長い金色の髪。雪のような肌。円らな瞳に、揺れる長いまつげ。ほんのりと色づいた頬に、ばら色の唇。
 愛に期待し、幸せを夢見ていた少女の心は、美しいがゆえにひどく傷つきやすくて。
 ――守りたいと、思った。
「そうね」
 ふふと、彼女が柔らかく笑った。イリューは息を呑み、目を見張る。頬が紅潮していくのがわかる。
 シーユーが笑った。ほかのだれにでもなく、彼に、イリューに。
「初めて会ったときも、あなたはそう言ってたわね」

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