HOMENOVEL>新月、花の散る夜に。

新月、花の散る夜に。

   六

 かすかに色づいた白色は闇に染まることなく、彼を待っていた。
 身震いした。
 ほかは密集して葉を広げる木々が、その周囲だけは、まるで王を崇め恐れるかのように退いている。山中、ぽっかりと広がる平原の中央、さくらは今や見ごろと堂々と佇む。月のない夜空の遠くからは、やはりかすかではあるけれど、名誉楽団の演奏が再びイリューの耳に届けられた。
 風にさざめき、花が降る。足元に湧き出る小さな流れに、それはさらわれていく。
 ついに出会えた。ついに、この島の花に出会えた。
 恐る恐る歩み寄り、その根元に腰を下ろす。降り積もった花弁は美しく、ここには久しく、人が訪れていないことが予測される。きっとだれも知らないに違いない、なにしろ、あのような細い川を通り抜けなければ来ることはできなかったのだから。
 深い呼吸を繰り返す。心が穏やかになってくる。目を閉じ、耳を澄ませ、ほのかな香りに酔う。
 足を投げ出せば、ぐっしょりと濡れたスラックスに模様がつく。裸足は泥にまみれ、よく見るといつのまにか切ったのか、右の土踏まずからじわりと血が滲んでいた。
 右手で傷を調べながら、左手ではスープを口に運ぶ。すっかり冷め切っているが、まずくはない。靴と一緒に置いてこようかとも悩んだが、持ってきてよかったと、イリューは思った。空腹だった。
 パンをくわえ、寝転がる。見上げると、空には先ほどまで上げていた花火の煙が漂ってきていた。名誉楽団の演奏が終わったらまた打ち上げるだろう。ここから見えるだろうか。この山はそう高くないから、期待はできる。
 星が瞬く。美しいと思う。同時に、懐かしいと思う――昔と変わらずあるものなのに、我ながらおかしな感想を持つものだと、イリューは笑った。
 父が昔、星の名前を教えてくれた。けれど今はもう、覚えていない。英雄となった父は、我が子に、なにより貴族の振る舞いを教えなければならなくなった。
 そんなものに、興味はなかったのに。
「けれどそれを覚えなければ、今ここにもいなかった」
 花びらがひらりと、彼の鼻先に降った。ふっと息をかけると少しだけ浮いて、またもとに落ちる。仕方なしに右手でつまんで、じっと眺めた。そのうちにぶわりと大きな風が吹いて、視界が花の霧で覆われる。イリューは小さく呻いて、慌てて起き上がった。
 ――なに、やってるんだか。
 今ごろ、妻はジャンク・クロウマンとともにいるのだろう。二十年の約束を果たしているのだろう。そうだったらいい。そうであって欲しい。きっとそれこそが、妻の望みなのだから。
 きっと、『秘密の木の下』で――‥‥瞬間、目を疑う。
「シーユー?」
 ザザザッと草を踏み駆ける足音が耳元を横切った。
 霧を払い、顔を上げたとき、思わず彼は叫ぶ。彼の背後から突然飛び出し、つい今しがた彼が歩いてきた道を逆に辿ろうとするうしろ姿を、イリューは見出した。
 気に入りのリボンで飾られた金色に輝く髪。白く、美しく伸びる両手。庶民的な木綿のブラウスに茶色いワンピースと、衣服は彼女らしくない地味なものだけれど、見まがうはずもない。
 妻だ。
 ――どうしてここに?
 イリューはすぐさま立ち上がり、あとを追った。木々のあいだをすり抜け、川へと入ろうとする彼女の腕を、ようやく捕まえる。振り払おうと抗う肩を強引に引いて、それでも諦めずにもがく妻を、イリューは両腕で力一杯に抱きしめた。
「――痛い」
 震える声で彼女が呟く。それでも、イリューは放さなかった。
 放せなかった。
 思うよりずっと細かった。弱々しく震える体は今にも壊してしまいそうで、だけれど柔らかで温かな肌は、その存在は、朝からずっと探していた、妻そのもので。
 放せやしない。もう、会えないと思っていた。会うこともないと思っていた。
 知らず、腕に力が入る。妻はそれきり黙ったまま、小さな手で彼に抗い続けた。敵うはずもない、イリューがさらに強く抱きしめると、ついに彼女は諦めた。
 心臓が高鳴る。呼吸もままならず、声の出るはずもない。捕まえて、抱きしめてはみたものの、なにを言っていいかもわからない。今彼女には、うるさいほどの心音だけしか聞こえてはいないだろう。
 なにを。なにを言えばいいだろう?
「一人、か?」
 搾り出すように、ようやく出た声は、ひどく震えて裏返る。気恥ずかしさに顔が紅潮していくのがわかった。耳が、熱い。
 ごまかしにさくらを振り返る。変わらず白い花びらを降らせるその大樹の下に、だれかがいる気配はない。
 疑問が脳裏をよぎる。
 ――ジャンク・クロウマンは?
「‥‥だれかといるとでも、思ったの?」
「だれって、」
 静かな問いに答えかけて、言葉を飲み込む。ジャンク・クロウマンの名前を出せば、勝手に部屋に入り、日記を見たことがわかってしまう。
「‥‥一人で、こんなところにいたのか」
「悪い?」
 うつむいたまま、彼女は寂しげに言った。
 ジャンク・クロウマンは現れなかった。来なかったのだ。
「姿が見えないと、ミティスが心配していた」
 それに、答えはなかった。
 イリューはゆっくり、腕を緩めた。けれど妻の手を放しはせずに、さくらの根元へと引き返す。彼女も無言のままに従い、彼らは並んで腰を下ろした。
 シーユーはもう、逃げようとはしていなかった。
「そうだ、これ、屋台でもらったんだ、きみのぶんにと――冷めているけど、十分おいしい」
 イリューがスープとパンを差し出すと、妻はしばらくのあいだ見つめ、やがて手を伸ばした。朝食もまともにとらずに屋敷を出て行ったのだ、昼だって食べていなかったに違いない。今の彼女に、自由に持ち歩ける金銭もない。
 スープを飲もうとして、妻はわずかに顔をしかめた。冷たさに驚いたらしい、しかしすぐにそれは取り払われ、半分ほどを一気に飲み干した。
 と、いつのまにか楽団の演奏が終わったらしい。再び打ち上げられ始めた花火に、二人は空を見やった。高く打ち上げられた光は木々の上に見事な花弁を広げる。
「特等席だな」
 妻に訊きたいことは山ほどある。言いたいことも山ほどある、けれどなにも口にはできず、ただ小さく呟いた。
 シーユーは黙っている。今はまたうつむいて、ちぎったパンを頬張っている。
 遅れて届く音。夜空を照らす、月の代わりの大輪の灯火。眺めるは二人きり。
 ――秘密の木の下、か。
 沈黙が二人を包む。花火の音だけが幾重にも響く。ときおり吹く強い風に光は乱れ、さくらの花も舞い上がる。
 なるほど、これこそ、彼女たちの秘密の木に違いない。山の奥まった場所で、季節はずれに花を咲かせる。幼かった妻たちは二人だけでここへ来て、あの誓いを立てたのだろう。
 けれど、果たされることはなかった。
「ミティスは」
 淡々とした、美しいけれど悲しい声だった。妻が、不意に問う。
「ミティスは、なにか言ってた?」
「‥‥ああ」
 ――気にしていたのか。
 今朝、ミティスが彼の部屋を訪ねてきたことを思い出す。いなくなった女主人を探し、色をなくしていた侍女。妻が幼いころから彼女に仕え、一番の理解者であり、友人でもある。
 そんな侍女にもなにも言わずに出てきたことは、妻にも気がかりだったのだろう。
「花送りの宵は催すべきではなかったかと、慌てていたよ」
「そう」
 短い返事。食事をすっかり終えて、妻は両膝を抱き組んだ腕に顔をうずめていた。力なく垂れる金色の髪に触れようとして、イリューはためらう。
 一度離した手。再び触れるには、妙に勇気がいる。彼には、わずか足りなかった。
「ここで、なにをしていたんだ?」
 代わりに出てきたのはそんな問い。答えはわかっていたし期待もしていなかったけれど、話を終わらせたくなかった。彼女が、彼女から話し始めたのだから。
 果たして、返事はあった。が、イリューには意外だった。
「一人になりたかったの。それだけよ」
「え?」
 思わず発した疑問符に、シーユーが訝しげに顔を上げた。眉間にしわを寄せ、じっと夫を見つめる。
「いけない?」
「‥‥いや」
 首を振ると、妻はため息をついて彼から目を逸らし、まぶたを閉じた。まつげがふわりと揺れる。その先に雫が溜まり、シーユーはすぐに袖で拭ったけれども、イリューは見逃さなかった。
「ミティスは、どうしてそんなふうに思ったのかしらね」
 鈴のような澄んだ声が、柔らかく届く。いつもは見え隠れする棘も、今はない。ほかの女性なら当たりまえなのに、彼女がこんなに優しく話すのを、イリューは初めて聞いた。
「きみが朝、部屋で泣いていたのを聞いたそうだよ」
「ああ」
 そっか、と呟くように言って、妻は小さく――笑った。
 イリューは思わず彼女に向き直った。また両の腕に隠されてしまっているその顔を、そっと覗き込んだ。
 けれど笑みはすぐに消え、彼女は彼にも気づかぬまま、ふうと一つ息をついて続けた。
「ばかねえ、花送りの宵は関係ないのに」
 友を想った声色は、温かだった。
 冷たい風が吹いてシーユーが身を縮める。イリューは着ていた背広の上着を脱ぐと、彼女の肩にかけた。妻は驚いて彼を振り返り、イリューが見つめ返すと、恥ずかしそうに目を逸らした。
「関係、なくもないだろう」
「‥‥そうね」
 連続していた花火が途絶え、一つ、大きな花が咲いた。
「約束をしていたの。ミティスも知らないことよ」
 ときおり鼻をすする音が聞こえた。イリューから顔を背け、シーユーは懐かしむように、ゆっくりと語り始めた。
「大好きな男の子がいたわ。花送りの宵で知り合って――会ったのはたった二回だけだったけれど、お祭の夜は一緒に遊んだ」
 ――ジャンク・クロウマン。
 その名を出しはしないけれど。
「最後の宵にも、また来年会いましょうって誓ったわ。でも、‥‥」
 空を覆いつくすような、ひときわ大きな花火が上がり、だいぶ遅れて歓声が響いた。ここまで届くだなんて、相当な盛り上がりらしいことがよくわかった。
 ひきかえ、二人は――シーユーは黙り込んだ。肩で息をして、小さく嗚咽を漏らす。
 泣いている。
 慌てて、イリューはその背に触れた。けれどシーユーは首を振って拒む。両手で頭を抱え、髪をくしゃくしゃと掻く妻に、イリューは当惑する。
 花火は、終わったようだ。
「コモードはどうして、わたしたちの国を侵したの?」

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