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背中で聞いてる


 時計を見ると、十一時。東京ならまだ遊べる時間だが、こっちじゃあそうもいかない。わたしを見るなり顔をしかめたところを見れば、やはり父がよく思っていないのは明白だ。
 さすがにこれは怒っているのではあるまいか。なにか機嫌を取れるような話題はないかと探すうちに、家まであと半分を切った。
 父の車に乗るのはひどく久しぶりで、ハンドルを握る父の後頭部を、寂しくなったなあ、なんて思いながら眺める。
 禁句。今言ったら絶体絶命。だけれど、どうしても目は行く。
 これはイケナイ。会話がないから余計に気になる。イケナイ。外を見よう。けれど時間も時間、これでもかというくらい田んぼや畑だらけの農村に明かりは乏しく、雲に覆われた空はおもしろみの欠片もない。
 あーあ、と、シートに背を預ける。けどこの体勢は落ち着かなくて、いつのまにか、上半身を起こしてしまっている。
 昔から車酔いをするタチだった。
 寄っかかってると酔うよ、と母が言うので、いつもはだらけた背を、車のなかではぴしりと伸ばしていた。高校卒業後、都会に暮らし、今では車に乗る機会も減ったが、幼いころからの習慣というのは消えないもんなんだなあ、としみじみ思う。

 習慣といえば、わたしは昔から、勉強を自分の部屋ではなく、ダイニングでしていた。夕食の終わった食卓にノートと教科書を広げ、国語の音読を母に聞いてもらい、そのあと算数ドリルなんかをこなしていた。
 今も仕事を食卓に広げている。いいや、それは単純に、仕事用の机を用意していないだけなのだが。
 ねえ、と言いかけて、やめる。わざわざ話すようなことでもない。
 父もそうだ。家で仕事をするときは、食卓にノートパソコンを広げ、わたしと向かい合って座った。お互いになにも言わず、当時は父が怖かったから、上目遣いでちらりと父を見て、いちいち畏怖していた。
 怒っているのだと思った。だからそのあとで風呂場から鼻歌が聞こえると、父の機嫌が直ったのだと安堵した。本当のところ、父は始めから怒ってなどいなかった。ただ仕事に真剣に向き合うときの難しい顔が、わたしには怖かったのだ。
 タバコを日に一箱吸っていた。母は、健康にもよくないし、お金もかかるのだから、少しは減らしてくださいな、といつも渋い顔をしていた。
 面倒くさそうに火を消すものの、母がいなくなるのを見計らって、また新しく一本、取り出す。内緒だぞ、と低い声で呟く父の目が、わたしにはまた怖かった。
 笑ってなかったんだもの。告げ口したらどうなるかわかってるんだろうな、とでも続きそうな口ぶりなんだもの。
 わたしはいつも、黙って一つ、うなずいていた。

「そういえばこの車、タバコの匂い、しないね」
 テナント募集、とシャッターを下ろした店の角を曲がる。ここのパン屋さん、なくなっちゃったのか。商店街、といえるほど店は多くなかったが、その入り口がここだった。
 さらに進むと、見覚えのない大きなスーパーが現れて、あ、っと思わず声を上げる。
 ここには三軒くらいの個人商店があったはずだ。花屋、駄菓子屋、それから、タバコ屋。いつか父の使いで、ここのタバコ屋に来たことがある。
 商店の裏にも住宅が並んでいた。それがまるごとなくなって、広い駐車場と化していた。
 呆然とする。
「おまえ、何歳になった?」
 先ほどの問いに答えはないまま、父からの質問。
「二十五」
「そうか、じゃあ、もう七年になるのか」
 わたしが家を出てから、と言いたいのだろう。そうだね、とうなずく。
 じゃあ――と父がなにか続けようとして、押し黙る。なんだろう? 黙られちゃあ、わからない。気になる。
 ミラー越しに父の顔を伺う。ああ、あのころ見て恐れた、難しい顔。考えごとしてるのかな。怒ってるわけじゃないとわかっていても、やっぱりなんだか怖くて、尋ねることはできなかった。
 結局、会話はこれきりだった。歩き慣れた道を車で通り抜け、見慣れない新しい住宅を横目に角を曲がり、明かりのついた玄関のまえで、わたしは荷物を持って車を降りた。父はそのまま車庫に向かう。
 見上げる。
 まっ白な壁、赤い屋根。いつもならもうとっくに寝ているだろうに、窓からは柔らかい光が零れる。
 ドアノブに手をかける。鍵は開いていた。驚かなかった。むしろ、閉まっていたら驚いたろう。実家では昔から、留守か睡眠中でなければ鍵をかけなかった。
 母が起きている。わたしは、ただいま、と玄関をくぐった。
 懐かしい光景が飛び込んできた。
 ぼんやりとしたオレンジ色の光がアイボリーの壁紙に柔らかく染みこむ。焦げ茶色の靴箱の上には写真立てが飾られて、幼いころの兄とわたしが笑っている。その横には、まだ髪の毛が豊かだった父と、まだ体が細かったころの母。
 比べ、重量感を増した現在の母が、ダイニングから出てきた。
「お帰りなさい」
 白いシルクのパジャマ姿で出迎えられて、わたしはもう一度、ただいまを繰り返す。父が追いついてきて、乱暴に靴を放った。母がそれを正す。
「お疲れでしょう。すぐ、お茶をいれますから」
 容姿は若干変わっても、にこにこと笑う顔は写真と変わらない。ぺたぺたとスリッパを響かせて、先にダイニングへ進んだ父のあとを母が追う。
 わたしもそれに続――こうとして、先に荷物を置いてきなさい、と促された。
「部屋はそのまんまにしてあるから。掃除はしたけどね」
 お風呂も入っちゃいなさい、と言われて、くすぐったさを覚える。一人暮らしをして七年。自分のタイミングで生活することに慣れたがためか、こんなふうに指図されるのは気忙しく感じる。
 しかし、時間も時間。今日は疲れた。なにしろ、三時間強も電車に揺られていたのだ。新幹線代をケチっての鈍行旅行は、思わぬ落とし穴、少し酔った。
 毎日の通勤で乗り慣れたから、電車なら大丈夫かと思ったのに。父を待つあいだ駅で少し休んだけれど、車に乗っては治る気分も治らない。
 懐かしい自室に踏み入り、ギンガムチェック柄の布団に腰掛ける。鞄から飲みかけのお茶を取り出し、少し飲んで、深くて長いため息を一つ。目の前がぐるぐるするようなこの感覚は、酔いのせいか、眠気のせいか。
 さっさと風呂に入ってしまおう。勢いをつけて立ち上がり、浴室に向かう。ドアを開けると熱い湯気の出迎えがあって、どうやら湯を張り替えたばかりだと知る。古びてはいるけれどきれいに保たれているタイルを、東京の自室の浴室と照らし合わせて、母の細やかな性格がどうしてわたしに遺伝しなかったのかを考える。
 父かな、やはり。
 熱すぎて足を入れることもできない浴槽を埋めながら、シャワーで髪を洗う。シャンプーに手を伸ばそうとして、見慣れぬ銘柄に目を見張る。いかにも高そうなそれらは、通販雑誌で見た覚えがあった。
 このあたりは父の好みだろうな。そういえば父の吸っていたタバコも、自動販売機に並ぶようなものではなかった。成人してから探してみたけれど、なかなか見つからず、当時つき合っていた恋人と立ち寄ったタバコ屋で、偶然再会した。
 寡黙なわりに珍しいもの好き。イコールで結んじゃいけないわけではないけれど、我が親ながら、なにを考えているのかわからない。
 ゆったりと湯船につかる。熱が皮膚にじりじりと染みる。胸まで上がった水位に圧迫されて、呼吸がやや苦しい。
 足を伸ばす。この広さも、父の好みだ。
 目を閉じる。眠ってしまいそうになる。イケナイ。出なくちゃ。浮き輪もしていないんだから。
 小さなころ――ある夜、浮き輪を持ってお風呂に入っていた。夏になるとよくやることで、この通り広い浴槽だから、小さな子ども用の浮き輪なら、たいして邪魔にはならなかった。日に焼けた肌に、湯はいじわるだ。熱いだの痛いだのとギャアギャア騒いで母を困らせ、水風呂にしてやっと我慢できた。
 ほかのどんなスポーツをするより、泳いだ日は疲れた。浮き輪に体を預け、心地よい水温に目を閉じると、どうしてもウトウトしてしまう。
 それで一度、完全に寝てしまったことがある。その日は帰りの遅かった父が、足を洗おうと浴室のドアを開けたところ、湯船につかっているわたしを見つけて、たいそう驚いたそうだ。そりゃあそうだ。死んでるとすら思ったらしい。
 もちろんすぐに起こされて、父は安堵した顔を見せたあと、ばかやろう、とわたしの額をこづいた。
 翌日には笑い話になっていた。わたしも自分のマヌケさがおかしくって、ミチヨとの交換日記に書き残したっけ。

「で、あんたはいつごろ結婚できるのかねえ」
 一時を回った深夜、母が柔和な笑みを浮かべて言う。ホウ、ホウと、夜行性の鳥の鳴き声が遠くから聞こえてくる。
 ミチヨが結婚する。正確には、もう、した。できちゃった結婚で、出産に式が間に合わず、長男マサユキくんを抱いての披露宴が明日、行われる。
「いい人はいるの」
「このあいだ別れた」
「まあ」
 母が絶句する。無理もない。訊かれるたびにそう答えているのだから。母のなかでわたしは、たぶん十人くらいの恋人と、つき合って別れている。
 でも実際は、全部同一人物だったりする。十回以上も、つき合ったり、別れたりを繰り返している。
 絶対、また別れるくせに。またつき合うくせに。自分のことながら、ふしぎだ。たぶん、彼のほうもそう思っている。
 彼しか考えられないくせに、なにかきっかけがあると、簡単に離れてしまう。まるで付せんみたい、と、いつかミチヨに言われた。
 父が風呂から上がってきた。黙ったまま食卓につき、けれどもちろん食事をするのではなく、どうやらやりかけだった仕事を再開した。ノートパソコンを開き、カタカタとキーを打つ。その真剣なまなざしは、いつかわたしが恐れたのと同じ。
 父が仕事を始めると、母はそっと席を立った。
「明日、早いんでしょう。あんたも早く寝なさいね」
 おやすみと言いながら階段を上がっていく背中に、はあい、と間延びした返事を一つ。それから、正面に向かい合う父――もっとも、父が向き合ってるのはわたしではなくて、パソコンなのだけど――の顔を、じっと見つめた。
「タバコ、やめたの?」
 頬杖をつき、返事を待つ。父の目が、ちらりとわたしを見て、すぐにモニターに戻った。
「タバコ屋がなくなったからな」
「ああ、‥‥ああ、そっか」
 納得。
 街のタバコ屋には売っていないのだろうか。いや、でも、きっと探すのが面倒くさいに違いない。母も喜んだだろう、父がタバコをやめて。
 わたしはやっぱり、父に似たんだろうな。
「ちょっと待ってて」
 待ってるもなにも父は仕事を終えるまではここにいるのだろうが、念のために言い残し、自室に戻った。母が寝た今しかない。
 ダイニングに戻る。先ほどと変わらずモニターに向かう父に、わたしは縦長の箱を差し出す。
「もう、いらないか」
 お土産のつもり、だったんだけど。
 父の手が止まった。いつもより大きめに開いた目がじっと箱を見つめ、しわの寄った指が、ふむ、とあごを撫でる。
「わたしも元彼も吸わないしさ、せっかくだからとっといてよ。お母さんには内緒ね」
 わざといたずらっぽく口元に指を当ててみせる。父の目が、今度はその指先に向けられたのを感じた。
 出そうになったあくびを手で隠す。さて、そろそろ寝なくっちゃ。おやすみなさい、と立ち上が――ろうと、したときだった。
 突然、ガタン、と、勢いよく父が立ち上がった。
 いや、実際にはそうではなかったのかも知れない。ただ眠かったから、静かだったから、その音が余計に響いただけだろう。
 とにもかくにもわたしはびっくりしてしまって、父を見つめた。けれど父は気に留めるようすもなく、すたすたとキッチンのほうへ歩いていった。
 どうしたんだろう。恐る恐るあとを追い、後ろ姿を見守る。
 大きな食器棚を開け、どうやら、なにかを探して――見つけたらしい。
「あ、それ」
 見慣れた、茶色い灰皿。わたしが小学校二年生のころ、図工の授業で作ったものだ。
 父はなにも言わぬまま、それを持ってダイニングへと戻った。そしてやはり黙ったまま箱を開け、タバコを一本取り出し、くわえた。
 ライターがない。慌てて周囲を見渡すと、どこかの居酒屋でもらったのか、マッチがあった。
「悪いな」
 ぼそりと低い声で、呟くように、無表情のままで。
 いつか怖がっていた父の姿。ちっとも変わらないのに、なんだかおかしかった。

 父の背中に、おやすみなさいを告げる。それから、今度、彼氏をつれてくるからね、とも。
 慌てて振り返った父を横目に、わたしは自室へと階段を上がっていった。

   了
※タイトルを葛城 慧瑠さまよりお借りしました。
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