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お母さんが魔女になった話


『お母さん、魔女になることにしたから』
 ‥‥はい?
「なに? 頭でも打った? 脳みそウジでもわいた?」
『やだ、失礼ね、母親に向かって』
 コロコロと笑う母の声は、少女のように無邪気で幼い。声だけじゃない、性格までそんな感じで、二日に一度のペースでかかってくる電話も、まるで同い年の友だちと話しているかのよう。このあいだだれだれと遊んだだの、お父さんがおもしろいことを言っただの、どこそこのケーキがおいしいだの。
 あのね、お母さん。お母さんの友だちなんてあたしは会ったことないし、親のノロケなんて聞きたくないし、あたしは東京に住んでるから、静岡の店なんて紹介されたって行けないっつの。
 てか、二日に一度、ってのも多すぎ。電話しすぎ。そりゃあ減ったほうだけどさ、このあいだお父さんから、やめさせるようにってメールが来たんだよ。お母さん、電話代、どれくらいかかってるか把握してないでしょ。
 と、言いたいことは山ほどあるのだけれど、まさかの「魔女になります」宣言に、あたしの頭は真っ白になってしまった。
『でね、今日、いいもの送っておいたから。明日ぐらいに届くんじゃないかな。試してみてね』
 いいもの? と首を傾げているあいだに、むふふ、と怪しげな笑いを残して、電話は一方的に切られてしまった。
 問いただす時間くらいください、母上。
 怪しい。疑わしい。ってか、魔女ってなんですかお母さま。
 変な業者に騙されていなければいいんだけれど――いいや、魔女になれますなんて非常識をウリにする業者もいないか。
 明日。明日、なにが届くんだろう。まあなにが届いたにしても、試さなければいいだけのことだと自分に言い聞かせ、一抹の不安を振り払いながら、とりあえずあたしは寝ることにした。

 ま、そんな素っ頓狂な母の話はおいとくにして。目が覚めれば、あたしは今日も、気ままな一人暮らし、夢の東京生活を謳歌する。夢の、なんていうといかにも田舎ものですってふうに聞こえるけれど、東京じゃなくても、あの母の元から離れられただけで、あたしには十分夢のようだった。
 ゴミ出しにサンダルを引っ掛けて部屋を出る。アパートの赤い鉄製の階段は、あたしの足音をよく響かせる。あと一段で下りきるというところ、かごの潰れた自転車に乗ったオバサンが、ベルをちりちり鳴らしながら目の前を通り過ぎていった。
 空は快晴。真っ青な空に雲一つない。南頂を前に、白くギラギラ輝く太陽。朝独特の、肌に冷たい風は爽やかなのに、アスファルトにくっきりと焼きつく建物の影からは真夏の匂いさえする。まだ梅雨入りもしていないけれど。
 こんな日は白いブラウスがいい。バイトは午後三時から、その前に図書館に行ってこよう。借りていた本を返しに、新しい本を借りに、ついでに、‥‥ついでに。
 ふふ。
 ゴミ置き場には同じアパートに暮らす人たちのゴミがすでに山のように積まれていて、その上にあたしのゴミを乗せようとしたらガラガラと崩れてきた。‥‥しくじった。いいや、前の人の積みかたが悪かったんだよ、なんてだれに宛ててるのか一人言い訳しながら、そこを片づける。
 運がいいのか悪いのか、ちょうど収集車が来た。よかったのは崩れたものをそのまま回収してもらえたこと、悪かったことは‥‥寝巻きにカーディガンを羽織っただけの格好でゴミを散らかしていたのを見られたこと。もちろん、散らかしたのは故意ではないのだけれど、恥ずかしいったらない。
 オジサンたちは親切そうに笑っていたけれど、申し訳なさと情けなさとで、あたしは何度か頭を下げたあと、一目散に部屋へと駆け戻った。逃げ戻ったと言ったほうが正しいかもしれない。
 ああ、恥ずかしい。でも、オジサンでよかった――これでもしカッコいいお兄さんだったりしちゃったら、あたし、恥ずかしくってきっと生きていけない。寝癖だらけの髪、クマさん柄の寝巻き、着古したカーディガン、なのに足元だけ、やたら高いヒールのきらきらサンダル! 女の子としてありえない!
 ‥‥大げさすぎるか。ゴミ出しにいちいち着飾って出しそびれてゴミ屋敷にするよりよっぽどマシだ、と、サンダルを脱ぎながら考え直す。
 時計を見る。十時半。
 朝には遅い、昼には早い。おなかも空いてないし、ってことで、テレビをつけて再び布団に潜りこむ。さっき外に出たからか、眠気はある程度覚めているのに、ふしぎ。布団はまだぬくとくて、ガラス戸の開けられたベランダから吹き込む風との温度差に、体はもう動こうとしない。
 幸せ。幸せな、瞬間。
 手を伸ばせば、図書館から借りた本にすぐ届く。もう読み終えているのだけれど、あたしは意味もなく、パラパラとめくる。
 ――ああ、だれにも言うでないよ。もっとも、だれも信じてはくれないだろうけれどね。
 ――そうとも、わたしは知っているとも、ジェニット。驚くことはない、わたしはなにもかも知っている。そう、あんたが今日、ここに来ることも、あんたが生まれる前から知っていたとも。
 ――そうとも、あんたがなにを求めているのかも。ねえ、ジェニット。
 と、これだけ見て取って――そう、読んだというより見たといったほうが正しいと思う――あたしは本を閉じた。溜息をつく。そうだ、よりによって。
 改めてタイトルを見る。魔女の森。
 昨日の電話を思い出してしまって、せっかくのいい気分が台無しになってしまった。魔女。魔女、ねえ。
 あああ、‥‥いいや、寝ようっと。
 もう一眠り、二眠り。枕に顔をうずめると、テレビの声がだんだんに遠のいていく。はじに寄せた厚手のカーテンをも通り抜ける陽光に、鳥の鳴き声も溶けていく。
 ぼんやりと薄目を開けて、窓の外を見やる。裏のマンションの階段に、だれかが立っている。男の人だ、毎日来てる。きっと、あそこが仕事場なんだろうな。さっきからうろうろしているけれど、鍵でも忘れたのかしん。
 ぼーっと眺める。あっちも眺めてる。
 眺めてる。眺めてる――って、アレ?
 見られてる!
 にわかにまどろんでいた脳みそが一気に覚める。だけどうろたえはしない。見せない。あたしはワザと眠たそうに布団をかぶって、ワザとモゾモゾやって、二、三分経ってから這い出してトイレに向かった。
 ワザとよ、ワザと。もちろん、ワザと!
 ころあいを見て部屋に戻る。あの人はもういない。ちょっとホッとした。けれど、ああ、いつも見られてた?
 自意識過剰。‥‥いやいや、今のは確実だって!
 心臓がヒヤリとした。カーテンをシャッと閉めて、乱れた呼吸を整える。ふざけんな、なんて、相手がここにいるわけでもないのに、口のなかで叫んでみる。
 なんだかすごく、ムカついてきた。こういうのって文句言ってもいいもんなの? それこそ自意識過剰って言われそう。ああ、ムカつく、ムカつく。
 もう寝る気にもなれない。ちょっと早いけど、図書館に行く準備をしよう。服を着替え、鞄に荷物をつめて。
 ああ――ここでもまたショック。お気に入りの白いブラウスは昨日着たばっかりだった。今、ベランダの洗濯機のなかでぐるぐる回ってる。
 白いブラウスの気分だったのに。
 そういうわけで花柄のワンピースで手を打つ。メイクもキッチリ、そうそう、紫外線対策に、日焼け止めも塗っておかなくちゃ。鞄には財布やら化粧ポーチやらケイタイやらを放り込む。忘れずに、借りていた本も。
 つい夢中になって、気づいたときには、もう十二時を回っていた。まったく、どれほど時間をかけたら気が済むの、なんて自分に呆れながら、可愛くなろうと頑張ってる自分がまた可愛い、だなんて、ナルシーなことを考えてみたりもして。
 ともかく、メイク道具を片づけて、洗濯物を干してから部屋を出る。図書館までは歩いて十分。今日のお仕事場までは図書館から一時間ほどかかるから、昼食の時間も考えればあっちでゆっくりできるのは一時間もない。
 でもそれで十分。大丈夫。彼に会えれば、あたしは満足。
 知らず、足は早駆けになる。ドキドキして、顔には笑みが浮かぶ。やだなあ、今のあたし、はたから見たら一人でニヤけてる変な女じゃない。でも、それも可愛いんじゃあないかなぁ、なんて、やっぱりナルシー。
 息を切らせて、ようやく図書館にたどり着く。白いタイルの壁は少し寂れた感も漂うけれど、あたしにとっては西洋のお城にも見える。
 彼がいる。今日は、彼がいる日。
 時計を見る。一時、ちょい前。自動ドアのガラスを姿身代わりにして、身なりを整える。深呼吸を二つして、あたしはいよいよ、館内へと入っていった。
 静か。静かだ。古い紙、カーペットの埃、木製の本棚。静寂を守らんとする匂いに満たされた空間に一歩を踏み入れれば、なんだろう、宝物を探しにきた冒険者のような気分にもなる。
 素敵なことが起こりそうな――なんて期待は、カウンター前まで来たときに、ガラガラと音を立てて崩れ去った。
 返却受付で微笑んでいるのは、清潔感漂う真っ白なワイシャツに紺のネクタイを締めた二十代半ばの男性の司書さん。茶色い短い髪は綺麗に整えられ、ノンフレームのメガネの奥では、柔らかい黒の瞳が優しく笑んでいる。身長はあたしより半頭身高いくらい、細身の、爽やかでカッコいい、憧れの人。
 絵本を持って並ぶチビッ子たちの後ろで、ドキドキしながら待つ。ちらりと彼がこっちを見た。微笑む。微笑み返してくれる。
 幸せ。返す本を手元に用意して、チビッ子の受付が終わるのを見守る。丁寧に教える彼も、また素敵。子ども好きなのかしん、優しいんだな。なのに首を傾げてわからないと騒ぐチビ。ああもう、母親はいないの?
 なんてイライラしていたところ、どこからともなく、電子音が響き渡った。ケイタイの着信。まったくだれ――なんてシカメ面で、みんなが辺りを見渡す。
 ヤバイ。あたしだ。
 司書さんの目が、まっすぐあたしに向けられる。真顔。思わず苦笑いして、あたしはすぐさま外へと飛び出した。
 彼の責めるような目が痛かった。口許は優しく笑んでいたけれど、でも目は、迷惑そうにしてた。そりゃあそうだ。まさかの大音量、マナーモードにするのを忘れていた。
 恥ずかしい。まったく、だれよ、と悪態をつきながら、鞄からケイタイを引っ張り出す。
 ディスプレイには、今日の仕事の担当さんの名前。通話ボタンを押すなり、受話器からは甲高い女性の怒声が響いた。
『なんで来ないの?』
 ‥‥はい?
『もう始まってるよ、今どこ?』
 なに言ってるの、この人?
「今日は三時からですよね?」
 あたしが聞いたのは、三時から七時までってハナシ。アミューズメントストアの販売促進――早い話、店頭でのティッシュ配布。一時間千円の短期・短時間バイト、の、はず。
『なに言ってるの、十三時から午後七時までって言ったじゃない!』
 ‥‥はい?
『あとどれくらいで来れるの?』
「ちょっと待ってくださいよ、あたしまだお昼も食べてないし」
『そんなこと言ってる場合じゃないでしょう』
 頭のなかが真っ白になる。
「一時間くらいで」
『できるだけ早く来て』
 それだけ言って、電話は切られてしまった。なにその態度!
 ‥‥あたしが悪いのか? 慌てて駅に走りながら考えて思い出して。イラ立ちが絶頂に達する。
 え、だって、十三時から午後七時までっていう言い回しからおかしいじゃない。だいたい、仕事の話をしたときには、四時間ですね、って確認したし。それで頷かれたんだもの、午後三時から七時までって思うじゃない。
 なにコレ、あたしが悪いの? せっかく幸せな気分だったのに。
 そこへきて、また不快な電話。駅にようやく着いたとき、また担当さんから電話が来た。
『代わりの子が捕まったから、今日はもういいわ』
 ‥‥このクソばばあ!
 呆れ気味の声に、さらにはらわたは煮えくり返る。でもあんまりムカついて、ああそうですか、なんて返事しかできなかった。
 なにコレ。なにかのイジメ? あたし、なにか悪いことした?
 せっかく図書館に行ったのに本も返せず、せっかく司書さんに会えたのに話もできず、せっかく走って駅まで来たのにもう用なしですか、そうですか。
 せっかく天気のいい日なのに、白いブラウスの気分の爽やかな日なのに、なにもかもがグチャグチャ。花柄のワンピースさえ、汗でグチャグチャ。よく見ると、足元もグチャグチャ――サンダルで走ったから、指のつけ根が擦れて赤くなってる。泥まで跳ねてる。
 このぶんじゃ、メイクもそうとう崩れてるんだろうな‥‥ああほら、ショウウィンドウに映るのは、まるでお化けのあたしの顔。
 帰ることにした。もういい、帰ろう。本はまた、明日返しに行こう。明日はあの司書さんもお休みだし――前にそう聞いた。だから今日行ったのだけど。
 溜息が出る。途中のコンビニでお昼ご飯を買った。店員のオバサンに、なぜか、大丈夫、と訊かれた。そりゃあもう、心配そうに。ええ、大丈夫ですとも。というかあなたはどなたですか。
 さらに道の途中、さっきのチビッ子とすれ違った。お母さんと手を繋いでた。手には、新しい絵本を抱えていた。憎たらしいことに、チビッ子め、あたしを覚えていたらしい。あっ、と指をさされたけれど、あたしは無視した。
 ようやく家にたどり着く。
 時計を見ればまだ一時半。けれど今からなにかをするにはあんまり遅い。部屋の掃除でもしようかな、ああでも、それには疲れすぎた。やる気も出ない。
 郵便受けを覗くと、たくさんのチラシと一通の封筒が投函されていた。まったく、ゴミなんか入れないでよねと独り言ちて、チラシを足元のゴミ入れにねじ込む。それから封筒を見て、また溜息。
 ああ、送ったって言ってたね。でもまさか、普通郵便ですかお母さま。
 とりあえず部屋に戻って、昼食にする。最近お気に入りのたらこスパゲティを、昼ドラを見ながら食す。あんまりおいしく感じられないのは、このイライラと虚しさのせいかしん?
 締め切ったカーテンを開けるとやっぱり外は気持ちよさげで、窓を開け放ってみるけれど、まるで狙ったかのように朝の男の人が現れて、仕方なしに閉めた。
 なにコレ。なにコレ。
 惨めだ。なに、この転落ぶりは。
 あたし、なにやってるんだろう。よりによってこんなに天気のいい日に、薄暗くした部屋のなかで一人ぼっちで泥沼ドラマを見て。涙が出る。
 しょっぱくなった昼食を終えると、ちょうど二時。おもしろい番組もなくて、適当なチャンネルを流しておく。
 することがない。借りてきた本も全部読んだし。新しい本は借りれなかったし。仕方なしに、鞄から返すはずだった本を取り出す。魔女の森。
 パラパラとめくる。
 ――すべてのふしぎが魔女の仕業ではないのだよ、ジェニット。そうとも、もちろん、あんたにもそのふしぎを起こせるとも。
 ――魔女というのはね、ジェニット。愛する人のことならば、なにもかもわかるものなのだよ。
 んなことあるわけないじゃん。
 文章は一向、頭に入ってこない。読書も諦めて、あたしはちらりと、テーブルの上に置かれた封筒に目を向ける。
 せっかくだから開けてみる。なかから出てきたのは、一枚の白い紙と‥‥ねえ、お母さん。これはね、チョコレートっていうんだよ。
 でもお菓子は好き。疑いもなくチョコレートを口に放って、手紙を開く。
『これはふしぎな薬です。食べると、あなたの求めているふしぎが起こります』
 ‥‥食べちゃったよママン。あたしはふしぎなんて求めてないよ。
 と、そのとき、またケイタイが鳴りだした。この聞きなれた音は――なんでこんな時間に?
 驚きながら出る。母だ。
『そろそろ着いたかなと思って、アレ』
 だからって電話する? 普通。
『もうすぐ仕事でしょう? 頑張ってね、じゃあ家に帰ったら試してみてね』
「もう食べちゃったよ」
『あら、今、家? お仕事は?』
 なんとものんびりした問いかけが、受話器から響く。事情を説明すると、母は、そうなの、と呟くように言った。
 もう、ほかに言うことはないの? 大変だったねとか、ひどい担当さんねとか、励ましてくれたっていいじゃない。なのに母ったら。
『じゃあ、お母さんとおしゃべりしようか!』
 ‥‥なんて嬉しそうに。ってかいつもしてるじゃない。
 だけどなんだかホッとした。

 カーテンを開けた。洗いたての白いブラウスが風にはためく。
 天気が、すこぶるよかった。

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