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レシート


 「おまえ、米は炊けるか」
 まだ風の冷たい四月の頭。珍しくかかってきた父からの電話に出るなり、そう訊ねられた。
 思わずぽかんとする。もちろん、と答えようとして、しかし気づく。
「お母さんは?」
「‥‥いない!」
 電話越しでもわかる。眉間にしわを寄せ、小鼻を膨らし、口元がピクピクとひきつっている父。自分の思い通りにならないときはいつもそんな顔をする。
 そんな父がわたしは苦手だ。いや、好きな女なんていないだろう。母だって「面倒くさい人だわ」とよくこぼしている。
 ‥‥まさか。ぞわぞわと冷たい不安が心臓を襲う。
「お母さん、帰ってくるの?」
「十日もすれば戻る。まったく、あいつは――‥‥」
 続くのは覚えのあるせりふ。脳味噌までもぞわぞわに支配された。


 実家に着いたのは七時をやや過ぎたころだった。鍵は持っていない。呼び鈴を鳴らすと全身から湯気を放出する父が出てきた。
 ふわりと広がる入浴剤の香りが冷えたほおをなでる。
「‥‥なんだ、買ってこなくてもよかったのに」
 温まって怒りが和らいだのか、穏やかな口調で父が言う。少しカチンときた。おなかを空かせていると思って慌てて来たのに。
「代金はちゃんと払ってもらうからね」
「押し売りか」
 たぶん父は、わたしが心底からいらだっていることに気づいていない。ニヤリと笑うと、わたしの鞄と長ネギの飛び出すエコバッグを奪うように取り、キッチンへ向かった。
 父の足音を聞きながらわたしはゆっくりと靴を脱ぐ。そして注意深く観察する。母の靴は、ない。
 音を立てないように靴箱の引き戸を開ける。ほとんど揃っていたが、おそらく母のものが置いてあっただろう空白があった。
 唾を飲む。たぶん、母は、本気だ。
「おい、まだか」
「この靴、脱ぎづらくて。今行く」
 今からわたしは、女優になる。
 いらだちを悟られぬよう。不安を気取られぬよう。なるべく自然に、平静に。さもなくば父とは話せまい。
「それで、炊けるのか」
 キッチンにたどり着いたわたしに父が問う。まあ、たぶん、と口のなかでもごもごと答えつつ先ほど父に奪われた鞄を探す。いや、探すまでもない。かつてわたしが使っていたいすに置いてあった。
 コートを脱いで背もたれに掛ける。鞄を探し、一枚の紙を取り出す。インターネットで検索した「土鍋でごはんを炊く方法」だ。
 見やると、コンロにはすでに土鍋が置いてあった。母愛用の、炊飯専用の土鍋だ。作業台には木製――なんの木だったか、母曰く、一番適した素材だそうだ――のおひつも出ている。
「あれ、お米、といだの?」
「それくらいできる」
 ばかにするな、とばかり、父が顔をしかめる。
 米はボウルに入れられ、水に浸かって白くなっていた。父がまったくなにもできないとは思わないが、ここまで準備したのは意外だった。
「腹が減った、早く炊くぞ」
 偉そうに。
 やはりムッとしたが、飲みこまざるを得なかった。似合わないエプロンを着け、わたしの持ってきたレシピを熱心に読む父の姿は想定外で、どう振る舞えばいいかわからなくなってしまった。
 この人はなにを考えているのだろう。
 レシピに従って米をざるに上げる父を、わたしはぼんやりと眺めた。

 我が家のキッチンが一般的ではないと気づいたのは小学四年生のときだった。家庭科の授業で米を炊くことになり、先生が各家庭での炊飯方法をみんなに訊いた。すると、土鍋で炊いていると答えたのはわたしと、あと二人ほどいただろうか。あとはみんな炊飯器だと答えていて驚いた。
 もちろん炊飯器の存在は知っていた。そこまで世間知らずではない。が、あれはお金持ちのお宅が使うものだと思っていた。母は「あんな高いもの、いらないわ」と言っていたし、実際、家電量販店のチラシを見ても、炊飯器は妙に高い。あんなに小さくてごはんを炊くしか機能のないものが、五万十万、平気でするのだ。
 贅沢品。そう思っていたから、どこの家でも土鍋で炊くものだと思っていたから、炊飯器がないのはほとんど我が家だけだと知ったとき、愕然とした。うちだけ貧乏だったのか、と。
 もちろん、そうではないと今ならわかる。むしろ毎度土鍋で炊くなど、贅沢そのものだ。火にかけているあいだはそばにいなくてはならないし、炊飯器のように予約もできないし、洗い物だっておひつを使えばさらに増える。
 おいしく炊ける炊飯器か土鍋とおひつかなら、後者二つを買ったほうがはるかに安い。それはたしかだ。しかしその後の手間とコストを考えたらどっこいどっこい、もしかしたら炊飯器のほうが安いかもしれない。
 一人暮らしのわたしは炊飯器を使っているが、炊飯器のなんと楽なことか。スイッチ一つでごはんがおいしく食べられるなら、五万十万でも決して高くない。

「お父さん、炊飯器、買ったら?」
「いや、いらん」
「でもお母さんがいないと、ごはん炊けないんでしょう」
「その紙があればいい」
 のんきな返事が癪に障る。いいって、どういうこと? お母さんがいなくてもいいってこと?
「お母さん、本当に帰ってくるの?」
 ため息混じりに放った言葉には、たぶん全部が溶けこんでいた。不安も不満も、怒りもいらだちも。
 土鍋でごはんを炊くのは面倒くさい。だけど母は毎日炊いてくれた。だのに、父はひどいことを――自分勝手なことを言った。
 おれのメシはどうするんだ、などと。
 女優だなんて、無理だ。泣きそうだった。父と母のあいだでなにが起こったかはわからないけれど、もしわたしだったら。もしわたしがいなくなったとき、わたしの夫が、わたしではなく夫自身の食事を心配していたとしたら。
 情けない、と耳の奥でだれかがこぼす。わたしもそう思う。情けない。情けない。情けない。
「お母さん、どこに行っちゃったの」
 声が震えた。必死で唇を噛んだ。が、ふと顔を上げたとき突然、なんだかおかしいことに気がついた。
 父はぽかんとしていた。え、とか、うん、とか、しきりにまばたきをし、まるでインコのように首をかしげていた――と思う。実際には背を向けていたから細かな表情はわからない。ただ、おおよそ合っていると思う。ぴかぴかに磨かれたステンレスの棚に父の影が映っていたから。
 脱力する。
「海外旅行だけど」

 火にかけたら炊きあがるまではあっというまだった。火を止めてからもしばらく待つ必要があったが、そのあいだに買ってきたサケを焼き、味噌汁を作り、冷蔵庫にあったニンジンとほうれん草のおひたしを添える。二人ぶんだ。時間が時間だ、わたしも食べていくことにした。
 土鍋からはごはんの匂い。おひたしからは鰹出汁とお醤油の匂い。塩の焼ける匂い、味噌汁で泳ぐネギの、少しツンとする匂い。
 暖かくないのに温かい、親しんだ実家の匂い。
「おまえは思い込みが激しいところがあるなあ」
 八時。ようやく整った食卓に着き、父が上機嫌に笑う。悔しいが否定はできない。
「お父さんは行かなかったの?」
「仕事がある」
 少し笑いながら、だけどおもしろくなさそうに答える。そして、さて、とわざとらしく言いながら、わざわざおひつに入れ替えたごはんを茶碗へついだ。米の一粒一粒がきれいに輝いて見える。
 ほのかな木の香り。そうだ、サワラだ。サワラの木だ。
「まったく、おれのメシはどうするんだ」
「自分で作ればいいじゃない」
「そういうことじゃない」
 ため息をつく。つきたいのはこっちだ。心配して損した。
「お、このおひたし、うまいな」
「冷蔵庫にあったのだよ。早めに食べ切ってね、だって」
「そうか」
 しゃきしゃきといい音が響く。温かいごはんと冷たいおひたし、この組み合わせがわたしは好きだ。
 母の味だ。


 今日の買い物
  サケ切り身     2枚 75円 ‥‥150円
  長ネギ(千葉県産)    98円 ‥‥ 98円
  卵           198円 ‥‥198円
  ジャガイモ(鹿児島県産)148円 ‥‥148円
              合計 ‥‥‥‥594円

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